旧油田の跡地を訪ねて

kanazu362013-06-01

新潟県佐渡島の南西沖約30キロの海底で、4月中旬から
石油と天然ガスの埋蔵量調査に着手、いま海底油田掘削事業が
脚光を浴びている。
長岡の新潟県立歴史博物館の新潟県のあゆみコーナーで
「大噴油〜石油ブームにわく新潟」と題し新潟県内の油田分布図が掲示され、「尼瀬油田」「新津油田」「東山油田」が紹介されている。
興味があり、修復完了した旧東山油田のシンボル「敢闘の像」が長岡市桂町の桂小学校の校庭に移設されたと知り、5月26日桂小学校や新津油田や尼瀬油田跡地など訪ねた。
新潟県内の油田分布図
 油田分布図には、明治初期から大正時代に開発が進んだ10油田が表示されている.
 黒川・新津・大面・尼瀬・東山・鳥越・西山・小千谷・牧・名立。
・旧東山油田の「敢闘の像」(長岡市桂町:桂小学校)
 東山油田は、長岡市と旧栃尾市の境にある榎峠周辺にあった。
 同油田は1888(明治21)年に開坑し、老朽油田を再開発して油を採る「坑道掘り」が国内で唯一採用された。
 1890年代には長岡市周辺には最大で約430社もの石油会社が設立され、1907年前後の最盛期には全国トップクラスの年間4万キロリットルを算出した。
 しかし、産油量減少で1997年に操業を終え休山、2010年に閉山した。
 閉山に伴い坑道掘りの斜坑を埋め立て、機械類も全て撤去された。
 東山油田保存会では、旧東山油田の歴史を次世代へ継承していこうと掘削の機械類などを所有者から譲り受け、恒久的な展示保存を目指して取り組んでいる。
 修復された像は、旧東山油田の近くにあったシンボルの「敢闘の像」。
 敢闘の像は、ドリルで掘削する男性像で1944年にセメントで製造された。
 風雨に長年さらされ傷みが激しかったためこのたび修復された。
 修復された像と坑道記念碑が桂小学校校庭に移設された。
新津油田の(新潟市秋葉区金津)
 新津油田は旧金津村の庄屋中野貫一が明治19年に屋敷内に1号石油井戸を掘り、明治32年に上総掘りと機械掘り(綱掘り式)を導入することにより石油掘削技術が進歩し127抗を掘り当てた。
 1904年(明治37)には95,400キロリットルと日本一の石油産出量を誇っていた。
 1917年:年産12万12万キロリットルを達成。産油量日本一となる。
 1980年代:組織的な採掘がほぼ終了。
 1996年:最後の井戸の採掘が終了。
 産油量日本一を誇った金津の里に、往時の繁栄振りを歌った軽便唄が石碑に刻まれている。
  ”仰ぎ見よ 峰から峰へと宝の櫓 日に日に汲み出す2千石 村は栄えて富をなす
   誰がつけたか 金津村”
 旧金津郵便局裏手に「濾過池」と「機械掘り3号井戸」が保存されている。
 説明板に3号井戸は、掘削年月・明治36年6月:掘削深度・194mと書かれている。
・尼瀬油田(出雲崎町尼瀬)
 尼瀬油田は、新潟県三島郡出雲崎町に存在した油田で、日本石油(現:JX日鉱日石エネルギー)発祥の地。
 国道352号沿いの道の駅“越後出雲崎天領の里」”の国道を挟んで向い側に「石油産業発祥地記念公園」がある。
 園内にはいくつかの石油掘削・精製の設備がモニュメントとして残され、「わが石油業こゝに起る」の記念碑や「機械開坑・第一号井之遺蹟」の碑などがある。
 尼瀬の地では古くから石油が自然に湧出していたことから石油開発が盛んになり、最盛期(明治20年代) には手掘りの油井が150本にも達した。
 その後、付近の海面を埋め立てて人工島が造られ,海底油田として操業する油田(世界初)も出現するなど、日本の代表的な油田の一つとなった。
 しかし、太平洋戦争前後から採掘量が激減し、1980年代に採掘は終了した。
 その後跡地に「石油産業発祥地記念公園」が整備された。
 公園内には、日本石油(現・日石三菱)創設者の内藤久寛氏の像や石油を蒸留し分別するのに使用した「石油蒸留釜」などがある。
・番外:弥彦神社に奉納された石油蒸溜釜(弥彦村弥彦神社
 弥彦神社の境内に平成13年3月、日本石油加工(株)柏崎工場から奉納された「石油蒸溜釜」が飾られている。
 説明板には、「明治17年頃田代虎次郎(新潟出身)により考案された、わが国初の石油精製装置である。
 二十石蒸留釜とも称され、原油を締め切った釜に入れ、下から熱し、原油から蒸発するガスをパイプで水中を通して冷やし、液体にする簡単なもの。
 わが国では2基しか現存しない」と書かれている。
戦前は日本でも有数の石油産出地であった新潟県
旧油田の跡地を訪ね、往時の繁栄ぶりを知った。
この像には掘削の歴史が (イラストを模写)

新潟県内の農産物直売所と朝市

kanazu362013-05-29

新潟県が2012年の農産物直売所の販売状況を発表した。
ことしも近くに「お母ちゃんの新鮮野菜直売所」と「西区新鮮
あさ市」が相次いでスタートした。
新潟県内の農産物直売所
 新潟県によると、2012年の農産物直売所は639カ所で、前年比15カ所(2.4%)増。
 年間販売額が過去最高の108億5900万円で、前年に比べ1億5600万円(1.5%)増。
 100億円を超えたのは、県が調査を始めた2001年以降昨年に続き2年連続。
 直売所数は2001年の307カ所から2倍以上で、販売額は同10億円から10倍以上になっている。
 県内の全直売所639カ所のうち、年間販売額1千万円以上の店舗は180カ所で前年比6カ所減。
  ・1億円以上は前年と同じ25カ所で横ばい
  ・5千万円以上1億円未満は前年比2カ所増の19カ所
  ・1千万円以上5千万円未満は前年比8カ所減の136カ所
  ・1千万円未満は前年比12カ所増の379カ所
  ・未回答は前年比9ケ所増の80か所
 出荷者数は前年より49人増の1万6027人。
 新潟県内の直売所は粟島浦村を除く県内全市町村にあり、運営主体で大別すると、JA・農業生産法人・企業・第3セクターなど。
 新潟経済社会リサーチセンターのアンケート調査によると、農産物直売所の主な利用理由は「新鮮」「価額が安い」「おいしい生産者名が分かる」「近所にある」など。
・近くの新潟市内の朝市
 ・お母ちゃんの直売所
  5月18日(土)、JA新潟みらい「お母ちゃんの直売所坂井輪店」がJA新潟西農協駐車場に建てられた仮設プレハブで今年もオープンした。
  営業は12月までの午前9時30分から午後2時30分まで、定休日は毎週火曜日。
  直売所にJA新潟西のお母ちゃんたちが自宅の畑でとれた新鮮な野菜を並べる。
  午後2時30分前でも品物がなくなれば閉店。 
 ・新潟西区新鮮あさ市
  今年も5月26日(日)から西区新鮮あさ市がスタートした。
  西区新鮮あさ市が初めてオープンしたのが2007年6月10日で、以後毎年開催しており今年で7年目となる。
  朝市は「都市と農村の交流推進」の一環としてはじまった。
  初日の26日、早起きし6時45分に朝市に出かけた。
  広場には地元農家など15店が出店していた。
  販売品目は、季節の野菜・果物・穀類・豆類など。
  販売は午前7時からだが売れきり次第終了となる。
・地域の恵みをいかす“庭先集荷”ビジネス
 5月27日、NHKにいがた610で「地域の恵みをいかす“庭先集荷”ビジネス」を放送していた。
 中山間地域の過疎地に自生する恵みの山菜が、庭先集荷ビジネスのおかげで限界集落の農家の人たちの貴重な収入源となる時代に・・・。
・番外:柏崎椎谷の馬市
 柏崎市の椎谷に「椎谷の馬市記念碑」が建立されてと知り5月26日見てきた。
 ・椎谷藩概要
  椎谷藩は堀直宥の代の元禄11年(1698)に越後と関東にあった領地を沼垂郡、蒲原郡、三島郡を1万石に集約し領内に陣屋を構えた時が始まりとされる。
  正徳5年(1715)に2代藩主直央は陣屋を現在地に移し、城下町を整備するなど藩政の基礎を固めた。
  椎谷城下は北陸街道の宿場町で、日本三大馬市と呼ばれる「椎谷の馬市」が開かれるなど経済的には安定していたが6代藩主直恒以降は定府大名となった事で、藩主が領内で政務を取る事がなく行政的、経済的に不安定な状態となった。
  8代藩主著朝の頃になると目に見える程藩の財政が悪化し、農民に重税を掛けた事で天明義民事件が勃発、幕府の裁定を仰ぐといった事件が起こった。
  結果、著朝は蟄居し新たに三河国西尾藩の松平乗祐の三男彦弥(改名して堀直起)を迎える事となり越後内の5千石を信濃国高井郡六川村へ同高で領地替えが行われた。
  明治4年(1871)に椎谷県が成立し、後に柏崎県、新潟県へと編入された。
 ・椎谷の馬市
  「椎谷の馬市」は、元和二年(1616年)に椎谷領の初代藩主堀直之が、馬匹改良を奨励したことからはじまった。
  直之は、農民に種馬を貸し与え、子馬が生まれると奉行所に届けさせ、その馬には 「馬の子鈴」を与え、首に下げさせて、労働使役として酷使しないよう禁制を設けて保護した。  
  毎年7月1日には、領主が種馬、子馬を閲覧して、駄馬を見つけると例の子鈴を取り外し、駿馬を見つけると買い取っていた。
  この日は、一般にも馬の売買が許可され、これが次第に盛んになって、「馬市」と呼ばれるまでに発展した。
  馬市は、椎谷の年中行事として、6月24日から7月2日までの間に行なわれ、前半は牡馬が売買され、後半は牝馬が売買される取り決めになっていた。
  藩の支援もあり最盛期には1万人を超える馬喰(ばくろう)が集まる大賑わいで、安芸の広島、奥州の白河とならび日本の馬市といわれた。
 ・椎谷の馬市記念碑の建立
  江戸時代椎谷藩の陣屋跡などが残る柏崎市椎谷に、かつて盛んだった馬市をしのぶ「馬市記念碑」が建てられ5月11日除幕式が行われた。
  記念碑は、旧椎谷藩堀家の子孫で22代目当主、堀光宗(千葉県在住)さんが寄贈した。
近くに農産物直売所や新鮮朝市がスタートしたことで今年も新鮮な野菜が食卓を飾る。
この野菜は (イラストを模写)

大相撲夏場所は横綱白鵬の全勝優勝で終わる

kanazu362013-05-27

大相撲夏場所は、13日目に横綱白鵬大関稀勢の里の全勝
対決で脇に沸いた。
全勝対決を制した白鵬が、千秋楽も横綱日馬富士を破り全勝で
25回目の優勝を飾った。
夏場所の話題などを新聞から拾った。
大関稀勢の里との全勝対決を制し白鵬が25回目の優勝と記録
 ・横綱白鵬の優勝25回目は朝青龍と並び史上3位
 ・今場所も全勝で優勝した白鵬横綱北の湖を超え、単独1位の38場所連続2ケタ勝利。
 ・今場所の全勝優勝で横綱勝利数は471勝で4位に
 ・全勝優勝回数は10回で1位
・日本人期待の力士大関稀勢の里が13勝2敗と大活躍
 日本期待の人力士稀勢の里が無傷の13連勝と大活躍。
 14日目は、日本人力士として7年ぶりの優勝を掛け横綱白鵬と全勝で対決した。
 結果は、すくい投げで敗れ1敗となった。
 千秋楽は、逆転優勝に望みを掛け大関琴奨菊と対戦した。
 結果は、寄り倒しで敗れ逆転優勝の夢は消え、13勝2敗の準優勝に終わった。
 来場所の成績いかんでは横綱の声も・・・。
・プレッシャーに負けた次期大関候補の関脇豪栄道と小結栃煌山
 期待された関脇豪栄道と小結栃煌山
 豪栄道は7勝8敗、栃煌山は6勝9敗とともの負け越し大関とりは振出しに。
・妙義龍が11勝4敗で5度目となる技能賞を受賞
 妙義龍が1横綱大関を破る活躍で5度目となる技能賞を受賞、大関とりに名乗りを上げた。
 今場所は、殊勲・敢闘両賞の該当者がいなかった。
・大砂嵐が幕下全勝優勝で来場所十両昇進濃厚
 幕下東七枚目の大砂嵐(大嶽:エジプト・21)が、幕下全勝優勝で来場所十両昇進を濃厚にした。
 十両に昇進すれば、史上初のアフリカ大陸出身関取の誕生となる。
 初土俵から所用8場所での新十両は、元大関小錦、関脇把瑠都に並んで、外国出身力士としては史上最速タイ記録となる。
大関稀勢の里の大活躍で夏場所は3年ぶり6回もの満員御礼が
 14日目に、日本人期待の力士大関稀勢の里横綱白鵬の全勝対決で5回目の満員御礼の垂れ幕が下がった。
 稀勢の里の逆転優勝を見ようと、千秋楽も大入りとなり今場所6回目の満員御礼の垂れ幕が下がった。
 昨年夏場所の満員御礼は5回で、一昨年は八百長問題の影響で技量審査場所として実施したため、大入りを出さなかった。
立行司36代木村庄之助夏場所を最後に引退
 今月16日で65歳となった立行司36代木村庄之助夏場所の千秋楽を最後に引退した。 
・番外:36代横綱羽黒山のパネル展(新潟市西蒲区中之口:先人館)
 36代横綱羽黒山(1914年11月18日−1969年10月14日)が、来年生誕100年となる。
 出身地の新潟市西蒲区中之口では、地元の名横綱羽黒山の偉業を再現する「36代横綱羽黒山のパネル展」が先人館で開催していたので5月25日見てきた。
 会場には、人物紹介とともに、写真やパネルなど17点が展示されている。
夏場所は日本人期待の力士大関稀勢の里の大活躍で、6回も満員御礼の垂れ幕が下がる人気であったが、終わってみれば優勝はやはり白鵬だった。
ファンは7月7日から始まる名古屋場所で、大関稀勢の里の初優勝と横綱昇進を期待する。
全勝対決は・・・ (イラストを模写)

黄金の国々佐渡金銀展と捨石銀山

kanazu362013-05-25

佐渡金銀山世界遺産登録推進企画の「黄金の国々佐渡金銀展」
新潟県立歴史博物館で開催されていたので、5月24日観て
きた。
・黄金の国々佐渡金銀展
 会場入り口には、日本では戦国時代から江戸時代にかけて、金山・銀山の開発が活発に行われ、そこで生産された金・銀は貨幣や工芸品として国内だけでなく世界的にも注目された。
 特に東日本では金の生産が盛んになり、戦国時代には黒川金山・湯之奥金山など甲斐の金山や越後の金山が、江戸時代には佐渡の金銀山が代表的な生産地として知られています。・・・。
 と書かれている。
 会場は、戦国時代の甲斐の金山と越後・佐渡の金銀山がテーマごとに分けられ、戦国時代・江戸時代を代表する甲斐と越後の金銀山を中心に、人の営みや卓越した鉱山技術、製造された金銀貨など227点が展示されている。
  ・第1章「戦国〜江戸時代の金と銀」
   ・戦国時代の黄金需要 ・貨幣としての金銀 ・装飾としての金銀
  ・第2章「戦国〜江戸時代の甲斐金山」
   ・武田氏と甲斐金山 ・甲斐金山と金山衆
  ・第3章「佐渡金銀山の成立と展開」
   ・佐渡金銀山の黎明 ・天領佐渡と鉱山町相川の成立 
   ・甲斐、石見、佐渡のネットワーク
  ・第4章「鉱山技術と貨幣製造技術」
   ・甲斐の鉱山技術 ・佐渡の鉱山技術 ・小判の製造技術
・旧下田村の拾石(じっこく)銀山(三条市下田地区北五百川)
 下田村史によると拾石銀山は、1824年に北五百川の拾石沢付近で鉛石の鉱脈が発見され、1824年には約5200キロの鉛を産出した。
 その後、銀も取れるようになり、約127キロを産出した年もあった。
 銀山は明治時代まで存続していたとされる。
 地元「下田郷郷土歴史研究会」では、銀などを掘った「坑道」を地域の宝として観光資源に生かせないかと検討している。
・番外:新発田赤谷鉱山と赤谷線
 ・赤谷鉱山
  赤谷鉱山は、スカルン鉱床で昔は赤谷銅山といい、その後は鉄鉱石を採掘した鉱山。
 ・赤谷線
  赤谷線(新発田− 赤谷間)は、赤谷付近から産出する鉄鉱石の輸送のため、官営製鉄所の専用線として1920年に敷設されたものであるが、第一次世界大戦後の不況のため使用されることなく放置されていたものを、地元の請願によって鉄道省が1925年に無償譲渡を受けて、赤谷線として開業した。
  末端の赤谷―東赤谷間は、鉄鉱山の再開発のため1941年に延長されたもので、東赤谷には鉱山からの積み出し施設が設置された。
  1984年(昭和59)4月1日全線(18.9km) を廃止。
「甲斐の金山と越後・佐渡の金銀」展を見ていると金銀で栄えた黄金の国々の往時の様子が伝わってくる。
金色色に輝く大判小判に (イラストを模写)

坂井輪中学校区に見る海抜ステッカーと冠水水位標

kanazu362013-05-23

2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波被害の教訓
を受け津波に備えるため、運転手や歩行者の避難に役立てて
もらおうと公共施設や国道にある標識柱などに「海抜ステッカー」
や「海抜表示シート」を設置された。
坂井輪中学校区に設置された「海抜ステッカー」と「冠水水位標」などを5月21日見てきた。
新潟市新潟県警察などが設置した「海抜ステッカー」
 ・公共施設
  ・坂井輪中学校:2.5m ・坂井輪小学校:−0.4m ・新通小学校:−0.2m 
  ・坂井輪保育園:−0.5m ・西地区事務所:−0.4m
  ・西区役所分館:4.7m 
  ・新潟西警察署:1m ・寺尾交番:0.6m
  ・JR寺尾駅改札口付近:15.4m
国土交通省新潟国道事務所が設置した「海抜表示シート」
 ・亀貝橋:2m ・坂井東2丁目:−1m ・寺尾上3丁目:0.6m
 ・新潟西バイパス亀貝インターの登り口:0m ・新潟西バイパス亀貝インター:5m
・冠水水位標
 平成10年8月4日の水害で冠水した地点に地面からの冠水の高さを占めす「水位標」が立てられている。
 ・坂井東2丁目:0.54m(大堀幹線) ・坂井西2丁目:0.73m(亀貝通り)
・番外:地域の取り組み
 新潟県は平成24年6月、東日本大震災を受け日本海沿岸で6つの地震が発生した際、「津波の第一波が5分以内に新潟市西区の海岸に到着し新川をさかのぼり、10分〜20分以内に内陸部低地で浸水が始まる」という津波想定を発表した。
 この発表を受け、内野コミュニティ協議会では、当コミュニティ管内の多くの住民が新川を挟む低地で暮らしている現状と、自分の家が海抜何メートルかを知ることが、防災意識の向上と災害対応の第一歩になるとし、海抜表示板(縦30センチ:横40センチ)を独自に作成した。
 管内14自治会がそれぞれ3〜5カ所の掲示場所を選び、海抜表示板計61枚を取り付けた。
管内を歩き自分の住んでいる地域が海抜0mであることを知った。
また、災害時の指定避難場所が、坂井東小学校と坂井輪中学校であることも知った。
この付近の海抜は (イラストを模写)

早朝の佐潟野鳥観察会に参加

kanazu362013-05-21

きょう5月21日は、草木が周囲に満ち始めるとされる二十四節季
の「小満」。
里も山も若葉が映える季節となった。
新潟市西区赤塚の「佐潟水鳥・湿地センター」が開館して15周年
になるのを記念し、5月19日早朝の佐潟野鳥観察会が開催されたので「小鳥コース」に参加した。
・「佐潟水鳥・湿地センター」の開設
 佐潟水鳥・湿地センターは、佐潟のほとりに建つ観察・交流施設。
 佐潟ラムサール条約に登録されたことから1998年(平成10)5月に開館し、今年で開館15周年となる。
 館内からは、望遠鏡を使って水鳥などを観察できるほか、佐潟の自然に関する資料などが展示されている。
 2013年3月末までの来館者数は約112万人となった。
・早朝の佐潟野鳥観察会
 早朝の佐潟野鳥観察会は5月19日(日)の午前6時から3コースに分れて行われた。
 コースは、「小鳥コース(5.5キロ)」「砂丘コース(4.5キロ)」「のんびりコース(2キロ)」。
 小鳥コースには小学生を含む約30人が参加した。
 小鳥コースは、佐潟の下潟を経由し上潟までの往復コースで約3時間。
 佐潟水鳥・湿地センターを数人のボランティア解説員の案内で出発。
 解説員が小鳥を見つけると鳥の方向に望遠鏡を設置する。
 望遠鏡をのぞく者、持参した双眼鏡で鳥の姿を探す者。
 解説員の一人が持参したタブレットを操作し、観察した鳥の姿をすぐに映し出す。
 折り返し地点の上潟の光塚に8時20分到着。
 復路は雑談しながら佐潟水鳥・湿地センターへ。
 9時10分到着。
 到着後、探鳥会で確認された小鳥の「鳥合わせ」が行われた。
 カッコウ・カンムリカイツブリオオヨシキリカワラヒワアオサギ・ヒオドリ・コムクドリなど27種が確認された。
 最後は「佐潟水鳥・湿地センター」開館15周年を記念し、記念写真を撮って散会した。
・番外:カタツムリが砂地の小径をゆっくりと横断
 間もなく梅雨の季節。
 梅雨時に映えるあじさいとカタツムリは絵になる。
 そんなカタツムリが早朝の朝日を浴びながら、砂地の小径を太い線を引きながらゆっくりと草むらに向かって進んで行く。
 時間をかけゆっくりと小径を横断する姿を見ていると心が癒され、しばし時間を忘れさせてくれる。
早朝の野鳥観察会で多くの小鳥たちに出会い、美しい小鳥たちのさえずりに心が癒された。
美しい小鳥たちのさえずりに (イラストを模写)

米納津隕石の記念碑と隕石のレプリカ

kanazu362013-05-19

2月15日ロシアのウラル地方で隕石が落下したと大きく報道
された。
今から176年前、新潟県の米納津村富永にも隕石が落下した。
ロシアに隕石落下を報道で知り、5月18日「米納津隕石」の
落下地点と長善館資料館に飾られている隕石のレプリカ見てきた。
・米納津隕石の碑
 米納津隕石の碑は、落下地点である燕市富永の田圃の中にある。
 碑は昭和37年(1962)11月10日建立され、碑の上部には隕石のレプリカが飾られ、碑には「納津隕石の碑・西暦1837年7月14日午後4時西方よりこの地に落つ」と書かれている。
 米納津隕石は昭和42年2月13日燕市文化財に指定された。
・長善館資料館に飾られている米納津隕石のレプリカ
 燕市粟生津の長善館資料館に米納津隕石のレプリカが飾られ説明文が掲げられている。
 説明文には、
 天保8年(1837)7 月14 日午後4時ころ、弥彦山と国上山の間から、ゴォーッと異様な音をたてて米納津村富永の田んぼへ落ちてきた。
 これが世にいう「米納津隕石」である。
 重量は31.65キロで、全国で3番目。
 石質隕石では全国2番目である。
 実物は東京の国立科学博物館に展示されていて、落下地点には同型の模型がある。
 落下の時、村は田の草取りの真っ最中。
 隕石の落下により、稲は約1坪位赤く焼け、水柱が約2.5mも上がった。
 “決死隊”という名のもとで村人が掘り下げていくと、地下6尺(約1.8m)の所に石のような物があった。
 相談の結果、田んぼ所有者であるの村庄屋の田辺賢吾氏が保管することになった。
 明治32年(1899)、帝国博物館の勧めで、東京へ出品され、その後、フランスのパリ大博覧会に日本の代表品として出品され、現在に至っている。
 「豆知識」
 隕石とは、太陽系の中を飛びまわっている小天体が地球に飛び込んできて、大気中で燃えきれず、地面に落ちてきたものである。
 分類別にみると、隕鉄石質隕石・鉄質隕石に分けられる。
 全国で1番目の大きさは、滋賀県の田上隕石(147キロ)、2番目は岩手県の気仙隕石(135キロ)である。
 と書かれている。
・ことしの田んぼアートの絵柄に米納津隕石
 燕市恒例のイベント「田んぼアート」のことしの絵柄は「米納津隕石」と市の観光PRキャラクターの「きらりん」に決まった。 
新潟県内の隕石の話題
 ・櫛池の隕石(上越市清里区櫛池)
  櫛池隕石は、大正9(1920)年9月16日午後6時30分、旧清里村櫛池小学校前にある櫛池川を越えた、大字上中条地内に落下した。
  重量は4.42キロ・直径18センチで、新潟県文化財に指定されており、県内に現存する唯一の隕石。
  当時の地元の高田新聞は、「爆音と黒煙を立てて大空から金色の石塊gさ落下す」と報じた。
  現在、隕石は清里区の星のふるさと館で展示されている。
  地元では、地域の宝の「櫛池隕石」をPRするため、櫛池の隕石のキャラクターと愛称を募集している。
  隕石のキャラクターデザイン案には138点の応募があり、第1次選考を通過したのは5点。
 ・旧栃尾市小貫の隕石
  明治時代に長岡市栃尾地域の寺の境内に隕石が落ちた可能性があるとして、住職がその隕石を探している。
  落下を報じる当時の新聞記事を読み、探したところ本堂の屋根裏から石を見つけたが、関係あるものかどうかは不明。
  「何か知っている人がいれば教えてほしい」と呼び掛けている。
  呼び掛けているのは長岡市小貫の瑞雲寺住職の石田哲弥さん(70)。
  発端は、見知らぬ京都市の男性から、隕石について記された手紙が届いたことから。
  送り主は地学の元高校教諭で、隕石について独自に調べている篠田皎(あきら)さん(77)。
  1899年(明治32)の東京朝日新聞で「越後古志郡上北谷村瑞雲寺」に隕石が落ちたという記事を見つけ、「事実なら新発見だ」と思い寺に知らせたという。
  記事によると「境内の竹林へ何か音して落ちたるものあり」とある。
  楕円形で赤黒い隕石で、住職が拾った際には熱を帯びていたと記している。
  石仏の研究家として知られる石田さんだは、隕石話は初耳だと驚いて境内を探した。
  屋根裏で1.5キロ余りの二つの石を見つけたが「隕石なら摩擦でもっとつるつるしてそうだから、違うと思う」と話す。
  明治時代の竹林の場所は現在の本堂裏と墓地になるが、痕跡を見つけたことはなく、記録も残っていない。
  鉱物学が専門の新潟大学理学部の赤井純治教授によると「現物があれば本物かどうかがある程度分かる」という。
  「寺中を探したい」と張り切る石田さんは「当時の住職は大変立派な方で、うそはつかないはず。伝承が残っているなど情報があれば教えてほしい」と。
空からの贈り物「隕石」が話題となり、「隕石」が地域の宝物として町おこしに一役買う。
これが隕石のレプリカ (イラストを模写)