廃村の越後角海浜村は毒消し発祥の地

kanazu362006-12-15

「わたしや雪国 薬売り あの山越えて
村越えて・・・・」と歌われる「毒消しゃいらんかね」
の歌は、昭和28年に宮城まり子さんが歌った。
新潟県西蒲原郡角海浜村(現新潟市)は、越後毒消し発祥の地
として知られる。
その毒消しも、宮城まり子が歌った昭和28年頃を頂点として新薬の進出や
社会情勢の変化で急速に衰微しいつの間にか消えていった。
消えたのは毒消しだけではない。
過疎と原子力発電所建設問題の渦の中で村も渦ととも廃村となり消えた。
消えた村を克明に記録していた人がいた。
新潟市福井(旧巻町)の写真家斉藤文夫さんだ。
兄が角海浜村に婿養子にいった縁で角海浜村の様子を写真に撮り続けていた。
その記録が「角海浜物語 消えた村の記録」という本になり紹介されている。
巻町郷土資料館に「角海浜村と毒消しの里」の資料が展示されていると聞き訪ねた。
展示室に入ると、大きな風呂敷を背負った毒消し売り姿の娘のマネキン人形
飾れれている。
壁の角海浜村史には、
1607(慶長12年)250戸 1675(延宝3年)233戸
1688(元禄3年)200戸 1902(明治36年)92戸
1902(明治36年)72戸 城願寺出火で民家20戸焼失
1935(昭和10年)42戸 128人 1955(昭和30年)28戸 28人 
1969(昭和44年)9戸 16人 角海浜村に原発建設が報道
1971(昭和46年)4戸 6人 原発離村第1号
1974(昭和49年)2戸 4人 7月28日最後の住人離村し0人、廃村
1975(昭和50年)0戸 無人古家を取り壊し
と廃村までの経緯が書かれたいる。
毒消し薬は、江戸初期から海辺の小村角海浜(旧巻町)で作られていた。
その起源も諸説ある。
弥彦神社の神が秘薬の製法を漁師に授けた。 ・上杉謙信の侍医が技術を伝えた
・行き倒れになった僧呂が助けられたお礼に同村にあった称名寺の住職に伝授した
等など。
最盛期には、製造業者が20軒以上もあり、女性の売り子3000人が、全国に行商に
出かけ毒消しを売り歩いた。
壁には最後の毒消し売り娘として大きな風呂敷を背負い、行商する笑顔の深滝スカさんの
写真も飾られている。
毒消しは現在、新潟市に本社がある製造会社1社が吉田町(現燕市)でごく少量製造
している。
明治30年西蒲原郡物産番付表には、・東大関 吉田 木綿 ・西大関 燕 金物
・東関脇 平島 鮭 ・西関脇 角海 毒消 と書かれ、角海浜村の毒消しは西関脇の
地位にある。
アサヒグラフの昭和15年6月5日号と昭和23年6月2日号の「毒消しいらんかねエ」の
記事も飾られている。
テーブルの上には「御自由にお読み下さい」と
角海浜物語 消えた村の記録 斉藤文夫著 2006年10月20日発行
・毒消し売りの社会史 佐藤康行著 2002年11月10日発行
・越後の毒消し 巻町双書第8集 昭和38年8月30日発行(非売品)
・写真集 角海浜 巻町双書第15集 昭和45年3月25日発行(非売品)
等の本が置いてある。
原発建設の中止が正式に決まったが、過疎と原発建設問題の渦の中で大きく
ゆれ動いた海浜村は、廃村となり消え歴史の中に埋もれ忘れ去られた。
かっての海浜村は、今はただ書物と地図にその名を留めるだけである。
じいちゃんの村は (イラストを模写)