越後毒消しコレクション展

kanazu362009-08-19

越後毒消しコレクション展が旧巻町「巻郷土資料館」で
開催されており8月12日見てきた。
「わたしや雪国 薬売り あの山越えて村越えて・・・・」と歌われる
「毒消しゃいらんかね」の歌は、昭和28年に宮城まり子さんが
歌い、越後毒消し発祥の地角海浜村は全国にその名を知られた。
その毒消し売りも、宮城まり子が歌った昭和28年頃を頂点として新薬の進出や社会情勢
の変化で急速に衰微しいつの間にか消えていった。
消えたのは毒消しだけではなかった。
過疎と原子力発電所建設問題の渦の中で角海浜村も廃村となり消えた。
・消えた角海浜
 角海浜村史によれば
 1607(慶長12年)250戸 1675(延宝3年)233戸
 1688(元禄3年)200戸 1902(明治36年)92戸
 1902(明治36年)72戸 城願寺出火で民家20戸焼失
 1935(昭和10年)42戸 128人 1955(昭和30年)28戸 28人 
 1969(昭和44年)9戸 16人 角海浜村に原発建設が報道
 1971(昭和46年)4戸 6人 原発離村第1号
 1974(昭和49年)2戸 4人 7月28日最後の住人離村し0人、廃村
 1975(昭和50年)0戸 無人古家を取り壊し
・越後毒消しコレクション展
 毒消し薬は、江戸初期から海辺の小村角海浜(旧巻町)で作られていた。
 その起源も諸説ある。
 ・弥彦神社の神が秘薬の製法を漁師に授けた 
 ・上杉謙信の侍医が技術を伝えた
 ・行き倒れになった僧呂が助けられたお礼に同村にあった称名寺の住職に伝授した
 などなど。
 能登より移住してきたと伝えられる巻町角海浜は、北前船が立寄る港町として栄えた。
 しかし、時代が進むにつれて、河口のある港町が繁栄し、それを持たない角海浜は次第
 衰微し困窮の道を辿って行った。
 村の男たちは生きて行くために、村の寺院の家伝薬「毒消丸」をを他国稼ぎの行商の
 商品として販売することを思いつき実行した。
 ここで、「製薬元」と「売子」という独特の販売システムが創り出される。(小林弌著・
 越後毒消し)
 江戸末期に創り出されたこの販売システムは、明治・大正になると爆発的に巨大化の道
 を歩む。
 「売子」は女に変わり、隣村の五箇浜・角田浜・越前浜・四ツ郷屋浜の浜の女たちや、
 松野尾・松山・布目・仁箇・稲島などの角田山山麓の女たちが、現金収入を求め、
 「毒消娘」として、東北・関東・甲信越などに旅立っていった。
 最盛期には、製造業者が20軒以上もあり、女性の売り子3000人が、全国に行商に
 出かけ毒消しを売り歩いた。
 会場の壁に「毒消しができるまで」の工程表と大きな風呂敷を背負い、行商する笑顔の
 「毒消娘」の写真が2枚飾られている。
 「毒消し売りの衣装と背負子」「製薬の道具」「薬袋」「薬袋の版木」など約130点が
 展示されれている。
 毒消しは現在、新潟市に本社がある製造会社1社が吉田町(現燕市)でごく少量製造
 している。
 昭和15年6月5日号と昭和23年6月2日号のアサヒグラフが展示され「毒消しいらんか
 ねエ!」の記事が掲載されている。
 会場で巻町郷土資料館資料目録NO3「越後毒消しコレクション目録」が売られており
 1冊購入した。
 最後のページに「毒消しゃいらんかね」(三木鶏郎作詞作曲・宮城まり子歌)の歌詞が
 載っている。
子どものころ「毒消し」は、食あたりや腹痛に効くといわれ置き薬箱の中にあったのを
覚えている。 

懐かしい毒消しの薬袋が (イラストを模写)