米納津隕石の記念碑と隕石のレプリカ
2月15日ロシアのウラル地方で隕石が落下したと大きく報道
された。
今から176年前、新潟県の米納津村富永にも隕石が落下した。
ロシアに隕石落下を報道で知り、5月18日「米納津隕石」の
落下地点と長善館資料館に飾られている隕石のレプリカ見てきた。
・米納津隕石の碑
米納津隕石の碑は、落下地点である燕市富永の田圃の中にある。
碑は昭和37年(1962)11月10日建立され、碑の上部には隕石のレプリカが飾られ、碑には「納津隕石の碑・西暦1837年7月14日午後4時西方よりこの地に落つ」と書かれている。
米納津隕石は昭和42年2月13日燕市文化財に指定された。
・長善館資料館に飾られている米納津隕石のレプリカ
燕市粟生津の長善館資料館に米納津隕石のレプリカが飾られ説明文が掲げられている。
説明文には、
天保8年(1837)7 月14 日午後4時ころ、弥彦山と国上山の間から、ゴォーッと異様な音をたてて米納津村富永の田んぼへ落ちてきた。
これが世にいう「米納津隕石」である。
重量は31.65キロで、全国で3番目。
石質隕石では全国2番目である。
実物は東京の国立科学博物館に展示されていて、落下地点には同型の模型がある。
落下の時、村は田の草取りの真っ最中。
隕石の落下により、稲は約1坪位赤く焼け、水柱が約2.5mも上がった。
“決死隊”という名のもとで村人が掘り下げていくと、地下6尺(約1.8m)の所に石のような物があった。
相談の結果、田んぼ所有者であるの村庄屋の田辺賢吾氏が保管することになった。
明治32年(1899)、帝国博物館の勧めで、東京へ出品され、その後、フランスのパリ大博覧会に日本の代表品として出品され、現在に至っている。
「豆知識」
隕石とは、太陽系の中を飛びまわっている小天体が地球に飛び込んできて、大気中で燃えきれず、地面に落ちてきたものである。
分類別にみると、隕鉄・石質隕石・鉄質隕石に分けられる。
全国で1番目の大きさは、滋賀県の田上隕石(147キロ)、2番目は岩手県の気仙隕石(135キロ)である。
と書かれている。
・ことしの田んぼアートの絵柄に米納津隕石
燕市恒例のイベント「田んぼアート」のことしの絵柄は「米納津隕石」と市の観光PRキャラクターの「きらりん」に決まった。
・新潟県内の隕石の話題
・櫛池の隕石(上越市清里区櫛池)
櫛池隕石は、大正9(1920)年9月16日午後6時30分、旧清里村櫛池小学校前にある櫛池川を越えた、大字上中条地内に落下した。
重量は4.42キロ・直径18センチで、新潟県県文化財に指定されており、県内に現存する唯一の隕石。
当時の地元の高田新聞は、「爆音と黒煙を立てて大空から金色の石塊gさ落下す」と報じた。
現在、隕石は清里区の星のふるさと館で展示されている。
地元では、地域の宝の「櫛池隕石」をPRするため、櫛池の隕石のキャラクターと愛称を募集している。
隕石のキャラクターデザイン案には138点の応募があり、第1次選考を通過したのは5点。
・旧栃尾市小貫の隕石
明治時代に長岡市栃尾地域の寺の境内に隕石が落ちた可能性があるとして、住職がその隕石を探している。
落下を報じる当時の新聞記事を読み、探したところ本堂の屋根裏から石を見つけたが、関係あるものかどうかは不明。
「何か知っている人がいれば教えてほしい」と呼び掛けている。
呼び掛けているのは長岡市小貫の瑞雲寺住職の石田哲弥さん(70)。
発端は、見知らぬ京都市の男性から、隕石について記された手紙が届いたことから。
送り主は地学の元高校教諭で、隕石について独自に調べている篠田皎(あきら)さん(77)。
1899年(明治32)の東京朝日新聞で「越後古志郡上北谷村瑞雲寺」に隕石が落ちたという記事を見つけ、「事実なら新発見だ」と思い寺に知らせたという。
記事によると「境内の竹林へ何か音して落ちたるものあり」とある。
楕円形で赤黒い隕石で、住職が拾った際には熱を帯びていたと記している。
石仏の研究家として知られる石田さんだは、隕石話は初耳だと驚いて境内を探した。
屋根裏で1.5キロ余りの二つの石を見つけたが「隕石なら摩擦でもっとつるつるしてそうだから、違うと思う」と話す。
明治時代の竹林の場所は現在の本堂裏と墓地になるが、痕跡を見つけたことはなく、記録も残っていない。
鉱物学が専門の新潟大学理学部の赤井純治教授によると「現物があれば本物かどうかがある程度分かる」という。
「寺中を探したい」と張り切る石田さんは「当時の住職は大変立派な方で、うそはつかないはず。伝承が残っているなど情報があれば教えてほしい」と。
空からの贈り物「隕石」が話題となり、「隕石」が地域の宝物として町おこしに一役買う。
これが隕石のレプリカ (イラストを模写)