黄金の国々佐渡金銀展と捨石銀山

kanazu362013-05-25

佐渡金銀山世界遺産登録推進企画の「黄金の国々佐渡金銀展」
新潟県立歴史博物館で開催されていたので、5月24日観て
きた。
・黄金の国々佐渡金銀展
 会場入り口には、日本では戦国時代から江戸時代にかけて、金山・銀山の開発が活発に行われ、そこで生産された金・銀は貨幣や工芸品として国内だけでなく世界的にも注目された。
 特に東日本では金の生産が盛んになり、戦国時代には黒川金山・湯之奥金山など甲斐の金山や越後の金山が、江戸時代には佐渡の金銀山が代表的な生産地として知られています。・・・。
 と書かれている。
 会場は、戦国時代の甲斐の金山と越後・佐渡の金銀山がテーマごとに分けられ、戦国時代・江戸時代を代表する甲斐と越後の金銀山を中心に、人の営みや卓越した鉱山技術、製造された金銀貨など227点が展示されている。
  ・第1章「戦国〜江戸時代の金と銀」
   ・戦国時代の黄金需要 ・貨幣としての金銀 ・装飾としての金銀
  ・第2章「戦国〜江戸時代の甲斐金山」
   ・武田氏と甲斐金山 ・甲斐金山と金山衆
  ・第3章「佐渡金銀山の成立と展開」
   ・佐渡金銀山の黎明 ・天領佐渡と鉱山町相川の成立 
   ・甲斐、石見、佐渡のネットワーク
  ・第4章「鉱山技術と貨幣製造技術」
   ・甲斐の鉱山技術 ・佐渡の鉱山技術 ・小判の製造技術
・旧下田村の拾石(じっこく)銀山(三条市下田地区北五百川)
 下田村史によると拾石銀山は、1824年に北五百川の拾石沢付近で鉛石の鉱脈が発見され、1824年には約5200キロの鉛を産出した。
 その後、銀も取れるようになり、約127キロを産出した年もあった。
 銀山は明治時代まで存続していたとされる。
 地元「下田郷郷土歴史研究会」では、銀などを掘った「坑道」を地域の宝として観光資源に生かせないかと検討している。
・番外:新発田赤谷鉱山と赤谷線
 ・赤谷鉱山
  赤谷鉱山は、スカルン鉱床で昔は赤谷銅山といい、その後は鉄鉱石を採掘した鉱山。
 ・赤谷線
  赤谷線(新発田− 赤谷間)は、赤谷付近から産出する鉄鉱石の輸送のため、官営製鉄所の専用線として1920年に敷設されたものであるが、第一次世界大戦後の不況のため使用されることなく放置されていたものを、地元の請願によって鉄道省が1925年に無償譲渡を受けて、赤谷線として開業した。
  末端の赤谷―東赤谷間は、鉄鉱山の再開発のため1941年に延長されたもので、東赤谷には鉱山からの積み出し施設が設置された。
  1984年(昭和59)4月1日全線(18.9km) を廃止。
「甲斐の金山と越後・佐渡の金銀」展を見ていると金銀で栄えた黄金の国々の往時の様子が伝わってくる。
金色色に輝く大判小判に (イラストを模写)