旧油田の跡地を訪ねて
新潟県佐渡島の南西沖約30キロの海底で、4月中旬から
石油と天然ガスの埋蔵量調査に着手、いま海底油田掘削事業が
脚光を浴びている。
長岡の新潟県立歴史博物館の新潟県のあゆみコーナーで
「大噴油〜石油ブームにわく新潟」と題し新潟県内の油田分布図が掲示され、「尼瀬油田」「新津油田」「東山油田」が紹介されている。
興味があり、修復完了した旧東山油田のシンボル「敢闘の像」が長岡市桂町の桂小学校の校庭に移設されたと知り、5月26日桂小学校や新津油田や尼瀬油田跡地など訪ねた。
・新潟県内の油田分布図
油田分布図には、明治初期から大正時代に開発が進んだ10油田が表示されている.
黒川・新津・大面・尼瀬・東山・鳥越・西山・小千谷・牧・名立。
・旧東山油田の「敢闘の像」(長岡市桂町:桂小学校)
東山油田は、長岡市と旧栃尾市の境にある榎峠周辺にあった。
同油田は1888(明治21)年に開坑し、老朽油田を再開発して油を採る「坑道掘り」が国内で唯一採用された。
1890年代には長岡市周辺には最大で約430社もの石油会社が設立され、1907年前後の最盛期には全国トップクラスの年間4万キロリットルを算出した。
しかし、産油量減少で1997年に操業を終え休山、2010年に閉山した。
閉山に伴い坑道掘りの斜坑を埋め立て、機械類も全て撤去された。
東山油田保存会では、旧東山油田の歴史を次世代へ継承していこうと掘削の機械類などを所有者から譲り受け、恒久的な展示保存を目指して取り組んでいる。
修復された像は、旧東山油田の近くにあったシンボルの「敢闘の像」。
敢闘の像は、ドリルで掘削する男性像で1944年にセメントで製造された。
風雨に長年さらされ傷みが激しかったためこのたび修復された。
修復された像と坑道記念碑が桂小学校校庭に移設された。
・新津油田の(新潟市秋葉区金津)
新津油田は旧金津村の庄屋中野貫一が明治19年に屋敷内に1号石油井戸を掘り、明治32年に上総掘りと機械掘り(綱掘り式)を導入することにより石油掘削技術が進歩し127抗を掘り当てた。
1904年(明治37)には95,400キロリットルと日本一の石油産出量を誇っていた。
1917年:年産12万12万キロリットルを達成。産油量日本一となる。
1980年代:組織的な採掘がほぼ終了。
1996年:最後の井戸の採掘が終了。
産油量日本一を誇った金津の里に、往時の繁栄振りを歌った軽便唄が石碑に刻まれている。
”仰ぎ見よ 峰から峰へと宝の櫓 日に日に汲み出す2千石 村は栄えて富をなす
誰がつけたか 金津村”
旧金津郵便局裏手に「濾過池」と「機械掘り3号井戸」が保存されている。
説明板に3号井戸は、掘削年月・明治36年6月:掘削深度・194mと書かれている。
・尼瀬油田(出雲崎町尼瀬)
尼瀬油田は、新潟県三島郡出雲崎町に存在した油田で、日本石油(現:JX日鉱日石エネルギー)発祥の地。
国道352号沿いの道の駅“越後出雲崎「天領の里」”の国道を挟んで向い側に「石油産業発祥地記念公園」がある。
園内にはいくつかの石油掘削・精製の設備がモニュメントとして残され、「わが石油業こゝに起る」の記念碑や「機械開坑・第一号井之遺蹟」の碑などがある。
尼瀬の地では古くから石油が自然に湧出していたことから石油開発が盛んになり、最盛期(明治20年代) には手掘りの油井が150本にも達した。
その後、付近の海面を埋め立てて人工島が造られ,海底油田として操業する油田(世界初)も出現するなど、日本の代表的な油田の一つとなった。
しかし、太平洋戦争前後から採掘量が激減し、1980年代に採掘は終了した。
その後跡地に「石油産業発祥地記念公園」が整備された。
公園内には、日本石油(現・日石三菱)創設者の内藤久寛氏の像や石油を蒸留し分別するのに使用した「石油蒸留釜」などがある。
・番外:弥彦神社に奉納された石油蒸溜釜(弥彦村:弥彦神社)
弥彦神社の境内に平成13年3月、日本石油加工(株)柏崎工場から奉納された「石油蒸溜釜」が飾られている。
説明板には、「明治17年頃田代虎次郎(新潟出身)により考案された、わが国初の石油精製装置である。
二十石蒸留釜とも称され、原油を締め切った釜に入れ、下から熱し、原油から蒸発するガスをパイプで水中を通して冷やし、液体にする簡単なもの。
わが国では2基しか現存しない」と書かれている。
戦前は日本でも有数の石油産出地であった新潟県。
旧油田の跡地を訪ね、往時の繁栄ぶりを知った。
この像には掘削の歴史が (イラストを模写)