旧津川町の会津街道(殿様街道)を歩く

kanazu362013-06-11

きょう6月11日は二十四節気入梅で、暦の上では梅雨入り
だが、新潟県内は連日晴天の日が続く。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で会津が脚光を浴びている。
新潟県新潟地域振興局では、旧津川町会津領であったこと
から「八重の桜」に人気にあやかり、阿賀町の角島から諏訪峠までの旧会津街道(殿様街道)を散策するイベント「悠久の会津街道を歩く」を6月15・23日の両日開催する。
6月9日一足早く夫婦で会津街道(殿様街道)を歩いた。
会津街道(阿賀町パンフレットから抜粋)
 旧津川町(現阿賀町)一帯は、江戸時代には会津藩領で、津川は会津の西の玄関口となっていた。
 そして明治17年には阿賀野川沿いの道(現在の国道49号の基になった道)ができるまでは、阿賀町に今も残る「会津街道」が越後と会津を結ぶ主要道路として利用されていた。
 会津街道とは、新発田から赤谷〜諏訪峠〜津川〜野沢を経て会津に至る全長約92キロの街道。
 古くからの街道ですが、江戸時代の初期会津藩によって整備されたといわれている。
 会津藩と新潟湊との物資の輸送に使われたほかに、新発田藩村上藩のお殿様が参勤交代に利用していたことから、「殿様街道」とも呼ばれている。
 一方会津では、越後に向かう街道でしたので「越後街道」と呼ばれている。
 会津街道にはいくつもの峠がありますが、最大の難所とされた諏訪峠は、寛文年間(1661〜1673)には石畳の道に改修された。
 この石畳が今も津川町の清川高原周辺に当時のまま残されているほか、一里塚も行地、柳新田、福取などで見ることができる。
 また、八木山には本陣(参勤交代時の藩主の宿)として使われた建物も残されている。
会津街道(殿様街道)を歩く
 清川高原保養センター受付に「旧会津街道石畳の道」と「会津街道略図」のパンフレットが置かれている。
 ・清川高原保養センター 〜 柳新田集落
  柳新田は津川側の最後の集落で昔6軒の住家があったが現在は3軒のみ。
  1軒の家で犬を飼っていた。
  犬は、集落の畑や裏山の杉畑に出没するサルを追い払うために飼っている。
  サルの家族だろうか裏山の杉畑に5匹のサルいた。
  集落を過ぎると道は2路に別れ1路は諏訪峠へ、1路は鹿瀬に至る。
 ・柳新田集落 〜 柳新田の桂 〜 柳新田の一里塚
  ・柳新田の桂
   柳新田集落から山道を約15分歩くと津川町指定天然記念物(1990年4月1日指定)桂の木ある。
   ・樹齢推定300年 ・目通り太さ7.3m ・樹高32mで桂の木としては、珍しい巨木。
   桂の木近くで集落の一人が杉の木の伐採をしていた。
   クマやサルが出没しますのでこの鈴を待っていけば安心ですよと鈴を貸してくれた。
   ・柳新田の一里塚(阿賀町指定天然記念物(平成年17月1日指定)
   一里塚は、江戸時代のはじめ、江戸日本橋を起点として主要な街道に一里(約3.9キロ)ごとに造られた土盛。
   会津街道では寛文7年(1667)から整備が行われ、若松城下から一里ごとに道の両側に土を盛り上げ塚を築き、その上に榎などの木が植えられ、旅の目印にした。
   柳新田の塚は直径約10m ・高さ約4mの2基一対の完形で残された貴重なもの。
 ・柳新田の一里塚 〜 諏訪峠
  ・諏訪峠
   諏訪峠の山頂には東屋があり、吉田松陰の詩碑が建立されていた。
   諏訪峠左側の山道を登ればヘリポート基地に。
   諏訪峠を反対側に下れば旧三川村の行地を経て新発田市の赤谷に至る。
   山頂左側の林の中に朽ちた祠の残骸が残っていた。
   帰りに鈴を借りた集落の人に聞くと、昔の諏訪神社の祠で、神社は峠から集落の下に移したとか。
清川高原保養センターから諏訪峠までの会津街道の約4キロの石畳を約1時間40分かけ登り往時の旅人の苦労を知った。
石畳の街道を歩く (イラストを模写)