消えた村角海浜と越後毒消しの村

kanazu362010-11-08

写真展「消えた村角海浜」が新潟市西蒲区巻町で11月4日まで
開催されていたので観てきた。
角海浜村は「越後毒消し」発祥の地。
「わたしや雪国 薬売り あの山越えて村越えて・・・・」と歌われる
「毒消しゃいらんかね」の歌は、昭和28年に宮城まり子さんが歌い、越後毒消し発祥の地角海浜村は全国にその名を知られた。
その毒消し売りも、宮城まり子が歌った昭和28年頃を頂点として新薬の進出や社会情勢
の変化で急速に衰微しいつの間にか消えていった。
消えたのは毒消しだけではなかった。
過疎と原子力発電所建設問題の渦の中で離村が進み、角海浜村も1974年に廃村となり消えた。
・写真展「消えた村角海浜」(巻町:ギャラリー野衣・10月27日)
 江戸時代には200戸以上の集落をなしていた角海浜村。
 村は、過疎と東北電力原発の建設予定地とされるなど原子力発電所建設問題の渦の中で離村が進み、1974年(昭和49)に廃村となり消えた。
 会場には「角海浜物語“消えた村の記録”」の著者で知られる、巻町福井に住む斉藤文夫(77)さんが、昭和35年から過疎が進む角海浜村を撮り始め、全村離村した昭和49年の翌50年までの記録写真の中から約50枚が展示されている。
 ・親子で毒気し売りの旅に出る ・最盛期には100人もの毒気しの売り子がいた
 ・流木拾い ・200年以上たった民家が壊されていく ・竹が村の唯一の収入源
 ・1人で祭りの旗を上げる ・最後の離村者(昭和49年7月28日)
 などなど。
・消えた角海浜村(角海浜村史から抜粋)
 ・1607(慶長12年)250戸 ・1675(延宝3年)233戸
 ・1688(元禄3年)200戸 ・1902(明治36年)92戸
 ・1902(明治36年)72戸 城願寺出火で民家20戸焼失
 ・1935(昭和10年)42戸 128人 ・1955(昭和30年)28戸 28人 
 ・1969(昭和44年)9戸 16人 角海浜村に原発建設が報道
 ・1971(昭和46年)4戸 6人 原発離村第1号
 ・1974(昭和49年)2戸 4人 7月28日最後の住人離村し0人、廃村
 ・1975(昭和50年)0戸 無人古家を取り壊し
・越後毒消し村(巻町郷土資料館資料目録NO3「越後毒消しコレクション目録」から抜粋)
 毒消し薬は、江戸初期から海辺の小村角海浜(旧巻町)で作られていた。
 その起源も諸説ある。
 ・弥彦神社の神が秘薬の製法を漁師に授けた 
 ・上杉謙信の侍医が技術を伝えた
 ・行き倒れになった僧呂が助けられたお礼に同村にあった称名寺の住職に伝授した
 などなど。
 能登より移住してきたと伝えられる巻町角海浜は、北前船が立寄る港町として栄えた。
 しかし、時代が進むにつれて、河口のある港町が繁栄し、それを持たない角海浜は次第衰微し困窮の道を辿って行った。
 村の男たちは生きて行くために、村の寺院の家伝薬「毒消丸」をを他国稼ぎの行商の商品として販売することを思いつき実行した。
 ここで、「製薬元」と「売子」という独特の販売システムが創り出される。(小林弌著・越後毒消し)
 江戸末期に創り出されたこの販売システムは、明治・大正になると爆発的に巨大化の道を歩む。
 「売り子」は女に変わり、隣村の五箇浜・角田浜・越前浜・四ツ郷屋浜の浜の女たちや、松野尾・松山・布目・仁箇・稲島などの角田山山麓の女たちが、現金収入を求め、「毒消娘」として、東北・関東・甲信越などに旅立っていった。
 最盛期には、製造業者が20軒以上もあり、女性の売り子3000人が、全国に行商に 出かけ毒消しを売り歩いた。
 「毒消しができるまで」の工程表と大きな風呂敷を背負い、行商する笑顔の「毒消娘」 や「毒消し売りの衣装と背負子」「製薬の道具」「薬袋」「薬袋の版木」などの写真の掲載されている。
 毒消しは現在、新潟市に本社がある製造会社1社が吉田町(現燕市)でごく少量製造している。
 「越後毒消しコレクション目録」の最後のページに「毒消しゃいらんかね」(三木鶏郎作詞作曲・宮城まり子歌)の歌詞が載っている。
子どものころ「毒消し」は、食あたりや腹痛に効くといわれ置き薬箱の中にあったのを覚えている。 

腹が痛いよ!! (イラストを模写)