大河ドラマ「天地人」に沸く直江兼続の町与板

kanazu362007-05-17

2009年のNHK大河ドラマは、新潟市出身火坂雅志
天地人」と決まった。
主人公の直江兼続は与板城主である。
与板町には、与板城が3つもある。
・本与板城(飯沼氏・直江氏の居城 山城)
・与板城(通称城山・直江兼続の居城 山城)
・与板城(江戸期井伊氏の居城 平城)
地元では、直江兼続の居城を「城山」と呼び、井伊氏の居城を与板城と呼ぶ。
テレビ放映に先立ち12日、孫と30年ぶりに「本与板城」と「城山」に登った。
・与板城主直江兼続(1560年から1620年)
 新潟県南魚沼郡六日町坂戸、武将樋口惣右衛門の長男、幼名与六、1582年22歳で
 上杉景勝の命により直江家の名跡を継ぎ直江兼続
 景勝の執政(家老)、豊臣秀吉の命で上杉景勝会津120万石に移封、兼続は秀吉から
 米沢30万石を賜る。
 関が原の役で上杉家は敗れるが、世に言う「直江状」で上杉家を救い、上杉家は
 米沢30万石に減封されたが安泰。
 徳川家康は、「もし西国の大名が反乱を起した時、大阪城に籠って食い止められるのは
 直江兼続と蒲生源左衛門の2人ぐらいだろう」と。
 直江兼続公像は、与板町歴史民族資料館(現長岡市)前に建立されている。
・本与板城(直江実綱・信綱・兼続と直江家3代の居城)
 与板町の北部に位置し、前は信濃川を望み、後方は三島丘陵が控える。
 城址登口から狭い坂道を本丸跡目指し約20分で登った。
 途中城とは関係ないが、萬歳閣跡と書かれた標柱がある。
 昭和のはじめまでこの地に萬歳閣と護国殿と七堂伽藍が建っていた。
 高さ14mの阿弥陀仏坐像は与板の人たちから「与板大仏」と称されたと。
 山頂の本丸跡に着いた。
 本丸跡は、草に覆われ杉木立の中に「本与板城址」の石碑が建立されている。
 石碑には「本与板城は飯沼氏直江氏の旧址にて中越を鎮めた」と。
・与板城(通称城山・直江兼続の居城)
 上杉景勝の執政(家老)、直江山城守兼続の有名な居城。
 三島丘陵のほぼ中央部に位置し、中越を一望に収め、全山すべて自然に城郭をなし、
 さらに人工を加えた豪壮な山城である。
 本丸は104mの山頂にある。
 堤下の八坂神社から本丸を目指した。
 本与板城とは違い本丸までは道がきれいに整備されている。
 途中「おせん清水」と書かれた標柱がある。
 兼続の奥方の名前が「おせん」である。
 「おせん清水」は、奥方と関係があるのだろうか。
 朱塗りの鳥居を3つくぐり本丸跡に着いた。
 15分で登った。
 本丸跡はきれいに整備され、城山稲荷社が祀られている。
 広場には、兼続の漢詩「望むところのこと信の一字」と海音寺潮五郎の揮毫した
 「直江山城守旧城跡本丸」の石碑が建つ。
 近くに「城の一本杉」がそびえている。
 説明文には、「樹齢約400年、根本周6.6m、目通周3.5m、慶長3年与板城主
 直江山城守兼続が会津移封のおり記念として杉5本を植えたと伝えられている」と。
 下山は、別の道を下りた。
 道は狭い。
 10分くらいで登り口に着いた。
 登り口には、城山稲荷社の鳥居があり脇に直江兼続漢詩「人日」の石碑が
 建立されている。
町に戻り、兼続がかぶとに掲げる「愛」の文字にちなんだ与板の銘菓栗饅頭
「愛の前立(まえたて)」を買った。
作家の童門冬二氏は、著書「戦国名将一日一言」の中で兼続の言葉を紹介している。
9月15日 「あの世の人間は、あの世に行って連れて来い」
10月16日 「田植えの時は、女は化粧して裾をまくれ(四季農戒書)」
裾をまくって臑(すね)を見せ、男たちにやる気を起こさせろ。とある
秀吉も家康もほれた男兼続。
与板町のパンフレットには「戦乱の世には、敵を震え上がらせた謀将・智将。
平時においては、領民を想い安定と繁栄に尽力した政治家」と。
大河ドラマでは、誰が直江兼続を演ずるのだろうか。
兼続は、どんな謀将・智将・政治家としてドラマに登場するのだろうか。
2年後が待ち遠しい。
直江兼続公像 (画を模写)