取り壊しを免れた我が家が一般公開

kanazu362007-06-07

6月1日、NHKテレビ「さよなら私の長屋」を観た。
超高層ビルの建設で、東京下町勝鬨(どき)の人情長屋が
次々と壊されていく。
思わず昔の我が家のことが脳裏に甦った。
新潟県は、「県立歴史博物館」の建設を決め、「雪国と暮らし」常設コーナーに
「造り込み雁木家屋模型」を展示することにした。
高田の町も開発や改築が進み、昔の姿を残す家は少なくなった。
便利さを求め古い家が、次々と壊され改築されていく。
貧乏が幸いしたのか?。
父母は、便利さを求めず不便の中で生き、江戸時代からの古き家を守った。
便所も台所も風呂場もかまども囲炉裏等も昔のままの姿で残っている。
今も江戸時代の姿を残す職人の家として調査もされ書物等でも紹介された。
県から模型として展示したいと声がかかった。
母は、「こんなボロ屋が、展示されるのはしょうしい(はずかしい)」と反対した。
県から私に「是非協力して欲しい」と連絡があり母を説得した。
本棚には、模型を作成した資料がある。
製作したのは、トータルメディア開発研究所で資料には「金津邸調査報告書
(平成10年7月23日)」と書かれている。
新潟県立歴史博物館は、2000年(平成12)8月1日に開館した。
招待を受け博物館を見学し、常設コーナーで我が家の模型を見た。
生家は「金津ミネ家住宅」と書かれガラスケースの中に飾られている。
我が家の模型の写真を母に見せた。
父が亡くなり、20年間一人で生家を守った母も2000年10月31日に亡くなった。
空き家となった家をどうするか。
兄弟5人が相談した。
「ボロ屋で大雪には耐えられない」と取り壊して更地にすことに決めた。
取り壊しに県から待ったがかかり、県の仲介で上越市が購入することに決まった。
不況で財政難、予算計上の見通しも立たず3年が経過した。
母の3回忌に兄弟が相談し「土地建物を市に寄付する」ことに決めた。
2003年(平成15)12月15日「土地・建物」を市に寄付しカギを手渡した。
木浦正幸上越市長は「本町、仲町の雁木と寺町の寺院群を結びつけ
回遊できる形にしたい」と。
江戸時代後期に建てられ代々続いた桶屋金津家も父の13代で終わった。
14代目は、新潟・東京・横浜・平塚の地で新しい歴史をスタートさせた。
東京勝鬨の人たちも壊された跡地に建つ新高層ビルで人生の再スタートを切る。
我が家は、財産的価値は無いが歴史的価値があるとして建物が残った。
東京勝鬨の長屋は壊された。
今我が家は、上越市の好意で維持管理され町屋として一般公開されている。
インターネットで時々我が家を見る。
絵葉書にもなり「桶職人の手仕事と高田の懐かしい暮らしの様子が残る金津憲太郎桶店」
とすばらしいキャッチフレーズもついた。
亡き父母が守り、兄弟の決断で取り壊しを免れた我が家。
先祖も天国から生家を眺め、思い出話に花を咲かせているのでは。
私の代で生家を取り壊さないでよかったと。
生家をどうするか (イラストを模写)