水との闘い芦沼から穀倉地帯に大変身の亀田郷

kanazu362007-08-23

新潟県の穀倉地帯亀田郷の水田は、所々が黄色く色づく。
まもなく収穫の秋、稲刈りが始まる。
新潟市では、動く市政教室を開催している。
21日のテーマーは「にいがたの水の歴史」。
水シリーズの参加は今回が3回目。
6月3日が新潟水道局主催の「信濃川浄水場見学」
6月20日が新潟市西区役所主催の「排水機上とポンプ場見学」
8月21日の「にいがたの水の歴史」には30人が参加した。
水との闘い芦沼から穀倉地帯に大変身した亀田郷土地改良区を訪ねた。
職員からパンフレットを受け取り、ビデオで「水との闘い芦沼の歴史」を観、
亀田郷の大地形図を見、農具等が展示される芦沼館を見学した。
19日早朝の新潟市の大雨では、亀田郷土地改良区の親松排水機場のポンプが
フル稼働し田畑と住宅地を水害から守った。
・亀田郷とは
 新潟市中央区江南区・東区にまたがり、信濃川阿賀野川と小阿賀野川
 新潟砂丘に囲まれ、鳥屋野潟を底とする輪中地帯の総称。
 地区の面積は、11154ha(田3829ha・畑634ha・その他
 11154ha)で、その3分の2が日本海の平均潮位より低い。
 土地改良以前は、「芦沼」や「地図にない湖」と呼ばれた低湿地帯。
・芦沼
 作家司馬遼太郎をして「世界に類をみない」と言わしめた、過酷な湿地帯での
 農作業。
 胸まで水に浸かっての作業を、来る年も、また来る年も、わずかばかりの作に
 祈りを込めて繰り返した。
 農民は、海が荒れれば海水が逆流し塩害に、大雨が降れば信濃川阿賀野川
 小阿賀野川の氾濫に苦しめられた。
 農民たちは、潟や湖の泥を船で運び水面下の田に入れ少しでも高くしょうとした。
 水と闘い、水と生きることが亀田郷に住む農民の宿命であった。
 いつの日か、「芦沼を乾田にすること」が農民の願いだった。
 小学校の社会科の教科書で、胸まで浸かって田植えをする写真を見た記憶がある。
 あの写真が、芦沼と言われた亀田郷の田植えの様子だったのだ。
・芦沼の乾田化
 亀田郷土地改良区の大事業が芦沼を乾田化した。
 昭和23年に東洋一といわれた「栗ノ木排水機場」を完成させた。
 排水機場の完成で亀田郷内の水が信濃川に排水され、芦沼が乾田化した。
 昭和39年の新潟地震によって機能が低下した栗ノ木排水機場に替わり、
 昭和43年に旧親松排水機場が整備された。
 その親松排水機場も老朽化したことから、平成19年3月22日新しい
 親松排水機場が整備された。
 新親松排水機場は1秒間に60立方メートルの水を排水する。
 現在雨が降ると亀田郷の雨水は、全て鳥屋野潟に集め親松排水機場のポンプで
 信濃川に放流する。
・芦沼館
 亀田郷土地改良区の敷地内に芦沼館がある。
 芦沼館は1998年10月、亀田郷土地改良区創立50周年を記念して
 建てられた。
 全館杉材で、白い壁、大きく張り下屋(げや)に特徴を見ることができる。
 建物は総二階建て。
 芦沼・湛水時代の苦難の歴史を伝える資料約200点が展示されている。
 展示品からは、農家が水と闘いそれを克服した農民の数々の知恵が伝わってくる。
 子どものころ見た、大八車・唐箕(とうみ)・アンカ・コタツ・カンジキ・足踏み水車
 等など。
 懐かしいものを見つけた。
 「サンバイシ」と「田植え枠」である。
 サンバイシは米俵の上下に当たるワラ製の丸いフタである。
 米俵は、今は紙袋に代わりサンバイシを見ることができない。
 サンバイシといえば、昔、ハシカ(風疹)が良くなると赤飯を炊きサンバイシに
 乗せ、母が近くの儀明川に流してくれた記憶がある。
 故郷高田の田植え枠は、畳1畳位の長方形の枠だった。
 亀田郷のものは6角形の丸い細長いコロである。
 コロを転がし田に目印を付け、苗を植える。 
 会館には、見れば見るほど懐かしい農家の道具が並んでいる。
 道具のひとつひとつからは、水と闘った亀田郷の人たちの苦労が伝わってくる。
芦沼から穀倉地帯に大変身の亀田郷。
乾田で生活する若い人たちも、水と闘った先人の苦労をもっと知ろう。

昔の芦沼は (イラストを模写)