知将直江兼続生誕地の坂戸山に登る

kanazu362007-10-02

2009年のNHK大河ドラマは、
戦国時代「義」を貫いた知将直江兼続公を描いた
小説「天地人火坂雅志著)」に決まった。
9月21日、越後湯沢で開催された高校同期会の
帰りに、旧六日町の直江兼続の生誕地を訪れ坂戸山(標高634m)に登った。
新潟日報発行のパンフには、
「新潟を歩こう・景勝と兼続主従の若き夢、人柄が育まれる地を歩む」
南魚沼市発行のパンフには、
直江兼続・義を尊び愛民の思想を貫き戦国を駆け抜けた文武兼備の名将」
と。
上杉景勝(1555―1623)
 景勝は、弘治元年(1555)坂戸城主長尾正景の嫡子として生まれた。
 母は、仙洞院(上杉謙信の姉)。
 永禄7年、父正景の急死により10歳で城主となる。
 天正3年、謙信の養子となり春日山に入城。
 後に会津120万石の大大名となったが、関が原の戦いで破れ米沢30万石に。
直江兼続(1560―1620)
 兼続は、永禄3年(1555)坂戸城主長尾正景の臣、樋口兼豊の長男として生まれた。
 幼名与六、幼くして景勝の近習となる。
 主・景勝とともに上杉謙信の威風を尊び義を重んじ、民心を安んじる政治を第一とした。
 重臣直江信綱は、謙信死後の後継者争いのお舘の乱の論功行賞をめぐる論争に
 巻き込まれて死亡。
 景勝は、兼続に名門直江家を継がせ執政に抜擢し全権を委ねた。
 21歳で上杉家の執政に任じられあた兼続は、命をかけて戦い、命をかけて上杉家を
 守り抜いた。
 徳川家康に送った「直江状」は有名。
・お舘の乱
 天正6年(1578)、謙信の突然の死により越後国主の座をめぐり、養子景勝と
 もう一人の養子景虎が激しく対立した。
 景勝は、「お舘の乱」の戦火を勝ち抜き越後国主となり名門上杉家を継承した。
10:00 六日町駅前出発
10:05 南魚沼市役所広場で「景勝・兼続」主従レフリーを見る。
      右側が直江兼続公像、左側が上杉景勝公像
10:09 六日町大橋を渡る。 
10:20 銭淵公園(景勝の父長尾正景が謙信の従臣によって溺死させられたと
      いう説も)
10:32 坂戸山への分岐点、薬師尾根コース・城坂コースが。
      薬師尾根コースを登る。
      「9月18日午前11時ころ、8合目付近で熊が出没しました」と注意掲示
10:43 稲荷大神の祠
11:05 5合目(眼下に六日町の町並みと魚野川、その後方に魚沼の山並みが)。
11:36 切り株の上に景勝・兼続生地と書かれた木札が。
11:38 道標右寺が鼻、左実城(山頂の赤い鳥居が見える)
11:43 8合目(杉の木が一本)
11:54 9合目(松の木が二本)
12:06 山頂到着、六日町小学校2年生80名が。
山頂には冨士権現が祀られている。
案内板には、
坂戸城のはじまりは定かでないが、慶長3年(1598)豊臣秀吉による
景勝の会津への国替えに伴い堀直寄が入城したが、慶長15年(1610)
信濃国飯山に移り坂戸城は廃城となった。
山頂部一帯の郭を実城(みじょう)と呼ぶ。
12:45 昼食後下山(往路とは別の城坂コースで下山)
13:21 桃の木平
14:00 城坂(上杉景勝直江兼続生誕の地の石碑が建立)
14:20 御居間屋敷跡(御大典記念苑・大正4年植樹の杉の木が)。
14:36 家臣屋敷跡
14:40 城坂コース上り口到着
14:44 坂戸城址内堀跡
14:55 坂戸橋を渡る
15:13 八坂神社(坂戸城主だった長尾家が領民と共に信仰した神社)
15:40 六日町駅前到着
21日は、最高気温が30度を超す暑い一日だった。
地元六日町小学校2年生は、元気に登っていた。
下山は、六日町小学校は薬師尾根コースを私は、城坂コースで下山。
麓で小学生と合流した。
パンフには、景勝が上杉謙信の養子となって春日山城に移ると、坂戸城春日山城
支城となった。
坂戸城は、お舘の乱での攻撃、織田信長の侵攻にも屈しない無類の堅固さを発揮した
山城だったと。
マップを見ながらの坂戸山に登ったのだが、残念ながら「史跡坂戸城跡」の石碑を
発見することができなかった。

小学生が目の前に (イラストを模写)