知将直江兼続生誕地の坂戸山に登る
2009年のNHK大河ドラマは、
戦国時代「義」を貫いた知将直江兼続公を描いた
小説「天地人(火坂雅志著)」に決まった。
9月21日、越後湯沢で開催された高校同期会の
帰りに、旧六日町の直江兼続の生誕地を訪れ坂戸山(標高634m)に登った。
新潟日報発行のパンフには、
「新潟を歩こう・景勝と兼続主従の若き夢、人柄が育まれる地を歩む」
南魚沼市発行のパンフには、
「直江兼続・義を尊び愛民の思想を貫き戦国を駆け抜けた文武兼備の名将」
と。
・上杉景勝(1555―1623)
景勝は、弘治元年(1555)坂戸城主長尾正景の嫡子として生まれた。
母は、仙洞院(上杉謙信の姉)。
永禄7年、父正景の急死により10歳で城主となる。
天正3年、謙信の養子となり春日山に入城。
後に会津120万石の大大名となったが、関が原の戦いで破れ米沢30万石に。
・直江兼続(1560―1620)
兼続は、永禄3年(1555)坂戸城主長尾正景の臣、樋口兼豊の長男として生まれた。
幼名与六、幼くして景勝の近習となる。
主・景勝とともに上杉謙信の威風を尊び義を重んじ、民心を安んじる政治を第一とした。
重臣直江信綱は、謙信死後の後継者争いのお舘の乱の論功行賞をめぐる論争に
巻き込まれて死亡。
景勝は、兼続に名門直江家を継がせ執政に抜擢し全権を委ねた。
21歳で上杉家の執政に任じられあた兼続は、命をかけて戦い、命をかけて上杉家を
守り抜いた。
徳川家康に送った「直江状」は有名。
・お舘の乱
天正6年(1578)、謙信の突然の死により越後国主の座をめぐり、養子景勝と
もう一人の養子景虎が激しく対立した。
景勝は、「お舘の乱」の戦火を勝ち抜き越後国主となり名門上杉家を継承した。
10:00 六日町駅前出発
10:05 南魚沼市役所広場で「景勝・兼続」主従レフリーを見る。
右側が直江兼続公像、左側が上杉景勝公像
10:09 六日町大橋を渡る。
10:20 銭淵公園(景勝の父長尾正景が謙信の従臣によって溺死させられたと
いう説も)
10:32 坂戸山への分岐点、薬師尾根コース・城坂コースが。
薬師尾根コースを登る。
「9月18日午前11時ころ、8合目付近で熊が出没しました」と注意掲示
10:43 稲荷大神の祠
11:05 5合目(眼下に六日町の町並みと魚野川、その後方に魚沼の山並みが)。
11:36 切り株の上に景勝・兼続生地と書かれた木札が。
11:38 道標右寺が鼻、左実城(山頂の赤い鳥居が見える)
11:43 8合目(杉の木が一本)
11:54 9合目(松の木が二本)
12:06 山頂到着、六日町小学校2年生80名が。
山頂には冨士権現が祀られている。
案内板には、
坂戸城のはじまりは定かでないが、慶長3年(1598)豊臣秀吉による
景勝の会津への国替えに伴い堀直寄が入城したが、慶長15年(1610)
信濃国飯山に移り坂戸城は廃城となった。
山頂部一帯の郭を実城(みじょう)と呼ぶ。
12:45 昼食後下山(往路とは別の城坂コースで下山)
13:21 桃の木平
14:00 城坂(上杉景勝・直江兼続生誕の地の石碑が建立)
14:20 御居間屋敷跡(御大典記念苑・大正4年植樹の杉の木が)。
14:36 家臣屋敷跡
14:40 城坂コース上り口到着
14:44 坂戸城址内堀跡
14:55 坂戸橋を渡る
15:13 八坂神社(坂戸城主だった長尾家が領民と共に信仰した神社)
15:40 六日町駅前到着
21日は、最高気温が30度を超す暑い一日だった。
地元六日町小学校2年生は、元気に登っていた。
下山は、六日町小学校は薬師尾根コースを私は、城坂コースで下山。
麓で小学生と合流した。
パンフには、景勝が上杉謙信の養子となって春日山城に移ると、坂戸城は春日山城の
支城となった。
坂戸城は、お舘の乱での攻撃、織田信長の侵攻にも屈しない無類の堅固さを発揮した
山城だったと。
マップを見ながらの坂戸山に登ったのだが、残念ながら「史跡坂戸城跡」の石碑を
発見することができなかった。
小学生が目の前に (イラストを模写)