森山さんの孫から客土の丘の話しを聞く

kanazu362007-10-31

坂井輪地区公民館主催の地域探訪講座の
現地探訪で客土の丘(旧分水町)を車窓から眺めた。
百聞は一見に如かず。
10月28日現地を訪れ客土の丘を見た。
弥彦村役場近くの朱塗りの「日本一の大鳥居」(高さ30m・柱間20m・笠木40m・
柱径2.2m)をくぐり、左に曲がり広域農道を分水町方向に走ると右側に小高い丘が
見える、この丘が「客土の丘」。
・森山一郎氏の功績記念碑(旧分水町源八新田)
 源八新田前バス停脇に公園があり功績記念碑が建つ。
 公園入り口に「客土の丘」由来の看板がある。
 この付近一帯は腰まで没する泥湿田で、竹竿に乗って田を植え、船の上から稲刈りなど、
 難渋を極めていた。
 明治42年に大河津分水掘削が始められると、森山一郎が関係者の協力を得て客土組合
 を作り、24ヘクタールの土地に常時機関車3両、土運車75台、人夫約200人で、
 6年がかりで約157万立方メートル(26万立方坪)を運んだ。
 それから村人は、この土を深田に客土し美田造りに励んだのである。
 この丘を俗に分水又は分水の畑と呼んでいる。
 「客土」とは、「田畑の土をよくするために、よそから持ってくる土」と辞書に書かれている。
・竣工記念碑
 客土の丘の1画に小さな公園がある。
 公園には竣工記念碑が建つ。
 国上(くがみ)随道工事に伴い客土の丘の東西に御新田水路が貫通した。
 その掘削土をもって御新田地区の土地の整形がなされた。
 土地整備工事竣工を記念し碑が建てられた。
源八新田に森山一郎さんの子孫がいると知り訪ね話を聞いた。
森山八郎(78歳)さんは、一郎さんの孫に当たる。
客土の丘について、
・一郎は私の祖父です。
・源八新田集落は泥湿田で農民は、少しでも田に土をいれ高くしょうと努め間した。
・集落では、近くにある国上集落所有の小さい山を買い、山の土を田に入れていました。
・大河津分水掘削工事で大量の土砂が出てその捨て場に困っていると聞き祖父が自分の
 田を捨て場に提供した。
・分水町の渡部集落から源八新田まで複線の線路を敷き土砂を運んだ。
・線路は他人の土地を通るため地権者の協力を得るのに苦労した。
・土砂は、1.8mの高さで泥湿田すべてに入れるよう要望したが金と人手と期間が
 ないと言われ、土入れは集落の農家が行うことにした。
・土入れは農閑期の冬にソリに土を乗せ田に運んだ。
・土入れも熱心な人とそうでない人の差が出て田圃に段差が出来て苦労した。
・土入れ作業は終戦後も続いたが、今ならばダンプで簡単に土入れできるのに・・・
・線路は農地整備が終わる最近まで近くの畑にあったが、今はもうなくなった。
 残っていればいい記念になったのに。
・わが家には、土砂を運搬する様子の写真があります。
 今回の地震中越沖)でこの付近も被害がでました。
 地震が心配で写真は土蔵にしまいた。
・国上(くがみ)随道工事の掘削した土砂も「客土の丘」に捨てました。
 「客土の丘」には、大河津分水工事の掘削土砂と国上随道工事の掘削土砂の両方の土が
 あります。
・集落のみんなの協力で泥湿田が乾田となり美田に変わりました。
と。
百聞は一見に如かず。
丘の細い一本道を車で走った。
距離は1.5kmと長い。
今「客土の丘」は、畑として集落の人が利用する。
現地を訪れ、森山一郎さんの孫に当たる八郎(78歳)さんから「客土の丘」の話が
聞けてよかった。

客土の丘は (イラストを模写)