船の水先案内水戸教と住吉神社

今日28日は、官庁御用納め。
12月9日の新潟日報「碑は語る」で
水戸教と住吉神社のことが書かれていた。
水戸教という言葉に興味を引かれ25日
水戸教公園と住吉神社を訪れた。
・水戸教公園
 新潟島の北端部分の北部グランド脇に水戸教公園(新潟市雲雀町)があった。
 公園入り口には「水戸教公園」と書かれた門柱がある。
 門を入ると左側に「水戸教公園の由来」と書かれた掲示板がある。
 江戸時代「水戸」という言葉は「港」・「河口」という意味がありました。
 当時、信濃川の河口は、川が運んでくる土砂によって港の深さが変わりました。
 船を安全に岸につけ案内する、水先案内が必要でした。
 新潟では、その水先案内人のことを“水戸を教える人”=「水戸教」と呼んだのです。
 記録によると、享保5年(1720)ごろには、この辺りの水路にくわしい人たちが
 この水戸教の仕事をしていたようです。
 寛政年間(1800年ころ)には、以前からこの仕事を行なっていた伊藤家の初代
 仁太郎が専門にまかされ、伊藤家で代々受け継いで行なうことになりました。
 水戸教は明治に入り一時中断したが、11代仁太郎が引退する昭和4年(1929)
 3月まで続いた。
 昭和に入ると港も整備され、水の深さも安定したことから昭和4年3月11代仁太郎の
 引退とともに水戸教の歴史に幕を下ろしました。
 水戸教公園は、長年にわたり新潟港の安全を守り、発展をささえてきた水戸教の足跡
 を記念してこの場所に公園が造られた。
 公園内には、「やぐら」「新潟港開港百年記念碑」「平和記念碑「東屋」遊具」などがある。
 スロープ式のやぐらの登り口の看板に、新潟湊之真景がある。
 絵は、安政6年(1859)にはじめて外国船が来航した時の様子を描いた
 新潟湊之真景で水戸教も住吉神社も描かれている。
 説明文に「江戸時代から昭和のはじめまで新潟港の水先案内をしていた水戸教は、
 やぐらに登って港に入ってくる沖合いの船を確認していました。
 このやぐらの一番上は、この広場から4mの高さがあり、標高は約14mになります。
 やぐらに登り沖の船を眺めながら、港の歴史に思いをめぐらせてください」と。
 やぐらに登り沖合いを見た。
 あいにくの曇り空、残念ながら佐渡も見えず沖には船影もなかった。
住吉神社
 新潟市東堀通13番町を海岸方向に向かう坂道の頂上付近に住吉神社がある。
 神社の壁に張り紙がある。
 標高約27m・神社表面石段56段・神社右側石段37段・
 山頂住吉神社:慶応元年(1865・伊藤仁太郎家邸内より遷座
 方角石:明治24年8月奉納・御手洗鉢:明治17年9月奉納
 伊藤仁太郎顕彰の碑「越海津梁」:明治21年(1888)7月建立
 海難者招魂之碑(第四度津丸遭難の霊魂)のため:明治33年4月建立
 住吉祭:毎年7月(海の日)
 説明文には「日和山は、船乗りが出帆を決めるため、天候や風向きを観測する山で、
 各地の港にあった。
 新潟の日和山では、代々新潟湊の水先案内を務めた伊藤家が船見櫓を建て、天候や
 船の出入りを観測した。
 山は片原通洲崎町の下の突き当たり(現東堀通13番町)にあり、町に近かった。
 天保2年(1831)には、山に階段が付けられており、麓には茶屋も出来ていた。
 幕末には山の上に住吉神社が建てられ、麓から浜辺に通ずる道は日和山道と呼ばれた。
 日和山の船見櫓・茶屋・住吉神社は、明治13年(1880)に大火で消失した。
 神社表面石段脇に「日和山住吉神社」、神社右側石段脇に「新潟港水先案内水戸教
 発祥地」と書かれた標柱が立てられている。
 正面の石段を登り神社前に立った。
 周りに家が立ち神社の境内からは海は見えない。
 壁に貼られている写真の神社の屋根は立派な瓦だが、今の屋根は緑色のシートで
 覆われている。
 社の周りは小竹が茂り参拝者の人影もない。
 神社の近くに住む老人は、「戦前は観光バスも止まるほど有名だったが、今は市民の
 人でも神社の存在を知らない人が多いのでは」と。
「碑は語る」の記事で水戸教と住吉神社を訪ねその由来と湊の歴史に思いめぐらせた。

 晴れていれば向こうに佐渡が (イラストを模写)