弥彦神社旧権宮司宅と弥彦明訓学校
今年も新潟県内の初詣の人出は弥彦神社が、
23万8000人で県下最高だった。
弥彦村の弥彦神社旧鈴木権宮司宅が昨年9月26・27・29日の
3日間一般公開され9月27日見学した。
1月12日新潟市内新潟会館で「弥彦明訓学校の盛衰」の講演があり聴講した。
・弥彦神社旧権宮司宅
弥彦村の弥彦神社近くに弥彦大火を免れ、200年の歴史を持つ「弥彦神社旧権宮司宅」
が、初めて9月に一般公開された。(権宮司とは、神職の職階のひとつ)
パンフレットには、
・建物の歴史
・1802年(享和2):現在の弥彦神社・宮司官舎付近の鈴木嘉内宅として建築
・1878年(明治11年9月15日):明治天皇御巡幸時に岩倉具視右大臣が宿泊
・1882年(明治15年3月):鈴木彦雄宅の醤油倉の2階で明訓校が発足
その後現在の私立明訓高等学校に受け継がれる
・1884年(明治17年1月7日):出雲大社管長千家尊福が宿泊
・1912年(明治45年3月1日):弥彦大火・鈴木宅火災を免れる
現在の地(弥彦村スワノ木)に移築される
・明訓高校との関係
・1882年(明治15年3月):大橋一蔵先生により鈴木彦雄宅の醤油倉の2階を
校舎として弥彦明訓校が発足
・1883年(明治16年2月):弥彦競輪場の北西に移転、西蒲中学校を合併し
県立中学となる
・1888年(明治21年):県立廃止となり、改めて私立明訓校として存続した
・1895年(明治28年):廃校
・1942年(昭和17年):新潟の地に明訓中学として再起、現在の明訓高校に
受け継がれる
鈴木家の子孫が、家を離れた2000年ころから住む人がいないまま放置されていた。
旧鈴木権宮司宅の価値を掘り起こしたのが、古民家再生で知られるドイツの建築家
カール・ベンクスさん。
カール・ベンクスさんは、古民家再生などの功績で昨年12月安吾賞第2回新潟市特別賞
を受賞した。
つぶしてしまうという話に、新潟市の元高校教師鍋島紘一(65)さんが買い取り保存管理
している。
現在建物は、日曜日のみ予約制のフランス料理店として活用されている。
・弥彦明訓学校の盛衰(講師:新潟市文化財保護審議会委員 本間恂一)
明訓の語源の由来は、国会開設勅論の中の「宜シク今ニ及ンデ謨訓ヲ明徴ニシテ
以テ朝野臣民ニ公示スベシ」の謨訓の「訓」と明徴の「明」からとったといわれる。
・開校
弥彦明訓学校は、関谷孫左衛門・藤本甕樹の「協立私学ヲ興スヘキノ論」に賛同した
市島徳次郎(天王新田大地主)・大橋一蔵などが中心となり開校に奔走した。
明治16年(1883)3月3日、弥彦村で永山県令ら150人が出席して開校式が
挙行された。
修業年限は5カ年、1・2年生で国学・漢学・英学・数学を基本に日本語格・
詩歌学・翻訳書、3年生以上はこれに法律が加わる。
・閉校
関谷など学校関係者は、新潟県尋常中学明訓学校の存続を主張したが明治21年
(1888)4月26日新潟県知事が閉校を決定した。
・閉校後の活動
閉校後の明治21年9月藤田九二が経営を引き受けたが経営困難となり、明治27年
には教員2人、年末には「生徒ナシ」となり明治29年廃校となった。
・明訓学校のその後
明治33年11月、社団法人明訓校団の結成
昭和17年(1942)4月、新潟夜間中学に「明訓」の名称が継承され、明訓学校
で学んだ伴喉(こう)が理事長に就任、そして現在の新潟明訓高校へ受け継がれた。
パンフレットと講演資料では弥彦明訓学校の開校や廃校年月日等に相違がある。
ドイツの建築家カール・ベンクスさんにより旧鈴木権宮司宅の価値が見直され、取り壊しの
運命にあった家屋が鍋島紘一(65)さんの熱意で保存が決まった旧鈴木権宮司宅。
廃校となった弥彦明訓学校が、藤田九二や伴喉の努力で新潟明訓夜間中学をへて
新潟明訓高校へ受け継がれた。
忘れられていた歴史の1コマが人々の努力によって甦る。
弥彦明訓学校は (イラストを模写)