本与板城と与板大仏

kanazu362008-04-12

来年放送のNHK大河ドラマ天地人」に沸く
主人公直江兼続の城下町与板。
「与板の大仏様」の頭部が京都知恩院で発見という吉報が
新聞に。
与板の大仏様という見出しに、本与板城に登り「万歳閣旧跡」と書かれた
標柱のあったことを思い出し日記を開いた。
天地人の放送が決まった2007年5月12日、ゆかりの与板の町を訪れ本与板城に
登った。
与板町には、与板城が3つもある。
・本与板城(飯沼氏・直江氏の居城 山城)
・与板城(通称城山・直江兼続の居城 山城)
・与板城(江戸期井伊氏の居城 平城)
地元では、直江兼続公の居城を「城山」と呼び、井伊氏の居城を与板城と呼ぶ。
・与板城主直江兼続(1560年から1620年)
 新潟県南魚沼郡六日町坂戸、武将樋口惣右衛門の長男、幼名与六、1582年22歳で
 上杉景勝の命により直江家の名跡を継ぎ直江兼続
 景勝の執政(家老)、豊臣秀吉の命で上杉景勝会津120万石に移封、兼続は秀吉から
 米沢30万石を賜る。
 関が原の役で上杉家は敗れるが、世に言う「直江状」で上杉家を救い、上杉家は
 米沢30万石に減封されたが安泰。
 徳川家康は、「もし西国の大名が反乱を起した時、大阪城に籠って食い止められるのは
 直江兼続と蒲生源左衛門の2人ぐらいだろう」と。
 与板町歴史民族資料館(現長岡市)前に直江兼続公像が建立されている。
・本与板城(直江実綱・信綱・兼続と直江家3代の居城)
 与板町の北部に位置し、前は信濃川を望み、後方は三島丘陵が控える。
 城址登口から狭い坂道を本丸跡目指し約20分で登った。
・万歳閣と与板の大仏様
 本与板城跡に通ずる山道の途中に「万歳閣旧跡」と書かれた標柱がある。
 説明表示板には、
 万歳閣は、本与板の浄土真宗光西寺16代住職の藤井界雄さんが本与板城に建てた
 荘厳な建築物である。
 藤井界雄さんが日露戦争の戦死者供養のために、高さ約5メートルの大仏(与板大仏)
 製作を発願し、大正12年(1923)8月21日入仏開眼が行われた。
 仏像は天平様式の万歳閣と護国殿の2大伽藍に安置され、多くの参拝客で賑わって
 いた。
 藤井界雄さんの死(大正12年)後、多くの人に参拝してもらおうと、長岡市に移転させる
 計画が持ち上がり、頭部と胴体が切り離され地元民の反対を押し切り長岡に運び
 去られた。
 戦後、埼玉の人に譲渡され、その後、所在が所在が分からなくなっていた。
 昭和6年(1931)4月15日、万歳閣は浮浪者の失火により焼失。
 護国殿もその後豪雪のため倒壊した。
 昭和のはじめまで萬歳閣と護国殿と七堂伽藍が建ち、高さ14mの阿弥陀仏坐像は
 与板の人たちから「与板大仏」と称され賑わっていた。
 賑わいの地も、今はただ林の中に「万歳閣旧跡」と書かれた標柱が残るのみ。
 与板の大仏様の頭部発見は、与板町の田村勝美(76)さんが、3月京都知恩院を参拝
 中にボランティアガイドさんの観光客への仏像の由来説明を聞き気付いたという。
 「“あった!京都・知恩院に“80年前から各地を転々」の大見出し。
与板の町は80年ぶりに与板の大仏様の頭部発見と「天地人」ブームに沸く。
大河ドラマ天地人」の主役、直江兼続役は妻夫木聡さんに決まった。
南魚沼市では冬のシーンの撮影も始まった。
雪国新潟のゆかりの地は、桜の開花とともに大河ドラマ天地人」ブームに沸く。

ここに与板の大仏様が (イラストを模写)