村松藩と村松陸軍少年通信兵学校

kanazu362009-05-02

今日2日は「八十八夜」、村松が越後の茶の二大産地とは
知らなかった。
平成3年から3年間五泉に勤務し時々村松に足を伸ばしたが、
村松城跡公園を見学する機会がなかった。
地方紙新潟日報で今年1月から「村松郷土史巡り」を連載しており毎日楽しく読んだ。
村松郷土資料館で新潟日報連載記念特別展「村松郷土史巡り」を開催されていると知り
4月24日観てきた。
村松城跡
 旧村松役場で「村松3万石城下めぐり」ガイドマップを受け取り街中を歩き城跡公園へ。
 城川(滝谷川)に架る城跡橋を渡ると城跡公園だ。
 公園内には「城跡公園」の説明書の看板が立つ。
 「この城跡公園は堀家3万石の城跡であり、維新後120年その面影は本丸を囲った
 水濠の一部と土塁にわずかにとどめていた。・・・」と。
 城跡公園は、村松城跡の一部、約2万平方メートルを城跡公園として整備し
 郷土資料館は昭和59年に公園内に開設した。
 公園の一角に、加茂―村松五泉間を走り廃線となった蒲原鉄道の電車が保存されて
 いる。
 郷土資料館入り口右側に村松藩の紋入り手洗鉢がある。
 この手洗鉢は、江戸時代に村松藩の藩主が将軍家菩提寺である上野の寛永寺に寄進
 したものを平成11年に同寺の厚意により寄贈され移設したものである。
・特別展
 管内に入ると正面に「村松城模型」や「村松城下図」が飾られている。
 ・村松城模型
  村松藩(堀家3万石)の居城。
  正保元年(1644)、第2代目藩主堀直吉によって村松陣屋として開かれた。
  最初は無城であったが、第9代藩主堀直央時代の嘉永3年(1850)に城主格に昇格、
  村松城として城郭・掘割・土塁などの整備がなされ、約6万平方メートルに及ぶ敷地面積
  を誇った。
  模型は、御殿と南御殿を当時の資料をもとに平成12年に製作された。
 ・村松城下図 
  宝暦年間(1751〜64)に作成された村松城下図(宝暦絵図)が展示されている。
  縮尺は一分一間で道路幅や間口、奥行きなどが細かく書かれている。
  現在も藩政時代の町名がそのまま残り地図から当時の町並みを想像することが。
 ・村松藩人数一覧表(着到帳・御着到人数御定などより) 
  直時時代(寛永17年)家臣363人 ・直吉時代(寛文3年)家臣522人
  直庸時代(文政2年)家臣720人、外寄合81人 
  直賀時代(元冶元年)家臣617人 ・直弘時代(明冶元年)家臣617人
 ・茶甕(かめ) 
  村松茶は江戸時代初期、宇治の製茶師を招いて茶園を開かせたのが始まり。
  村上とともに越後の茶の二大産地として発展した。
  元冶元年発行の「越後土産」にも前頭二枚目として番付されている。
 ほかにも、第2代目藩主堀直吉の画、第9代藩主堀直央、村松藩主が着用したと
 伝えられている甲冑などが展示されている。
村松陸軍少年通信兵学校と戦没陸軍少年通信兵慰霊碑(村松公園) 
 村松陸軍少年通信兵学校12期生の大口光威(80:茨城県守谷市)さんらは、
 村松陸軍少年通信兵学校の通信兵の悲劇を後世の人たちに伝えようと「村松の庭訓を
 胸に・平和の礎となった少年通信兵」製作刊行した。
 本は受付に置かれており無料。
 読んだ。
 ・村松陸軍少年通信兵学
  村松町は、明治29年9月に新発田市から歩兵30聯隊が移住して以来終戦まで軍都の
  町であった。
  終戦末期の1943年(昭和18)村松町村松陸軍少年通信兵学校が新設開校され、
  終戦までに全国から志願した少年約2400人が学んだ。
  悲劇に見舞われたのが11期生のうちの約300人。
  戦局の悪化で1944年(昭和19)11月5日に繰り上げ卒業となった生徒が、九州の
  港からフィリピンや台湾などの戦地に向かった。
  輸送船団が撃沈されるという悲劇が起こった。
 ・戦没陸軍少年通信兵慰霊碑
  戦後、生き残った村松陸軍少年通信兵学校の生徒が、昭和45年に村松公園内の小山
  に「戦没陸軍村松少年通信兵慰霊碑」を建立、側には桜の記念樹も植えられている。
  慰霊碑には少年通信兵812柱の御霊が合祀されている。
村松の庭訓を胸に・平和の礎となった少年通信兵」を刊行した大口光威さんは、本の中で
「不戦を誓い、語れるわれわれが語り継がねばならない。平和を夢見て犠牲になった少年
たちに、思いをはせてほしい」と。
村松公園に戦没陸軍少年通信兵慰霊碑があることを知り、公園まで足を伸ばし慰霊碑を
お参りした。

慰霊碑に思わず (イラストを模写)