石川雲蝶と寺社彫刻

kanazu362009-06-22

17日、旧栄町のしらさぎ森林公園へ花菖蒲を見に行く道中で
三条市指定文化財石川雲蝶彫刻の石動神社」という看板を
見た。
石川雲蝶彫刻という文字魅せられ石動神社を参拝した。
・石動神社の石川雲蝶彫刻
 石川雲蝶:幕末期の彫物師・文化11年(1814)― 明治16年(1883)
 雲蝶(うんちょう)は、江戸末期から明治時代におもに越後で活躍した名匠。
 雲蝶は日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎にも匹敵する彫刻の名工で、越後の 
 各地に作品を遺している。
 雲蝶は、本名を安兵衛といい、文化11年(1814)に江戸の雑司ヶ谷で生まれ、
 20歳ごろにはすでに彫刻の奥義を究めて、32歳の時、江戸から越後へとやって来た。
 そして越後三条の酒井家に婿養子に入る。
 その後、栃尾市秋葉山御堂の建築、彫刻に携り、39歳の時、西福寺の二十三世大竜
 和尚様にその腕を見込まれ来山。
 それから10数年にわたって、開山堂の全ての彫刻、壁の漆喰細工、壁画、本堂襖絵、
 庭の石地蔵等仕上げた後、三条に帰宅し、明治16年(1883)に享年70歳で死去。
 石動神社は、旧栄町吉野屋地区の権現山の山頂に鎮座する。
 社殿まで400段ほどの石段が延々と続く。
 石動神社の鳥居の脇に「三条市指定文化財 有形文化財 彫刻 石動神社の彫刻」という
 看板がある。
 「石動神社には、江戸末期から明治時代にかけて活躍した越後の名工石川雲蝶の彫刻が
 8点残されています。  
 向拝はケヤキ材でできており、龍と波と千鳥・亀・鯉・唐獅子が彫られています。
 正面のイチヨウ材の欄間には、右側に鵺(ぬえ)退治・中央に蜘蛛退治・左側に大蛇退治
 が、回廊の脇障子の右側には神宮皇后と武内宿禰(すくね)、左側には加藤清正と高麗人
 が彫られています。
 また拝殿のなかは、おびんずるさまと呼ばれる木像、社務所には十二支が彫られて
 います」と書かれている。
 鳥居をくぐり400段の石段を登り拝殿に向かった。
 階段の途中に「地蔵様」「観音様」「稲荷様」が祀られている。
 拝殿鳥居右脇に夫婦杉がそびえる。
 大杉の下部は二股に分かれ右が夫杉で左が婦杉。
 拝殿鳥居左脇に「石動神社の彫刻 石川雲蝶作」の標柱が立つ。
 社殿正面の龍と波と千鳥・亀・鯉・唐獅子を見た。
 階段を上り明かりを付け本殿に入った。
 右側に鵺退治・中央に蜘蛛退治・左側に大蛇退治の彫刻が、天井には龍などの絵が描か
 れている。
 外に出て回廊を回った。
 右側の神宮皇后と武内宿禰(すくね)と左側の加藤清正と高麗人の彫刻を見た。
 街中の喧騒とわ違い、静寂な吉野屋集落の権現山の山頂に鎮座する石動神社を参拝
 する人影はない。
 参拝を終わり石段途中で加茂から来たという老夫婦に出会った。
・番外:直江津八坂神社の欄間彫刻(旧上越市直江津西本町:5月23日)
 八坂神社の拝殿彫刻を覆っていた銅製の網がこのほど取り外されと知り見てきた。
 拝殿の欄間彫刻は、直江津町史などによると江戸時代後期に今町(直江津)の富吉が
 手がけたという。
 彫刻を覆っていた銅製の網がこのほど取り外され彫られた木彫が約40年ぶりにお目見え
 した。
 彫刻に網がかぶせられたのが1971年。
 当時は子どもたちが多く、境内は格好の遊び場で草野球のボールが彫刻にぶつかって
 彫刻に傷をつけることもあり、神社が拝殿を修理した際に、欄間部分を網で覆った。
 今は少子化の影響で子どもたちが境内で遊ばなくなり彫刻に傷をつけられる心配も無く
 なり網が取り外された。
 神殿前に立つと神社正面にカメとカメと松竹梅が、周りにはシシ・クジャク・ワシ・ウシ・
 ニワトリや花など動植物の細かな彫刻が見られる。
・番外:柏崎番神堂の拝殿彫刻(柏崎市番神
 柏崎の番神堂は文永11年(1274)、佐渡配流をゆるされた日蓮上人が着岸したところ。
 無事上陸できたことを神に感謝して、八幡大菩薩を中心に29の神を合祀している。
 拝殿の彫刻は、出雲崎の原篤三郎・脇野町の池山甚太郎・直江津の彫富(ちょうとみ)で、
 鳳凰や桐や水波や亀などの桃山風の彫刻が彫られている。
 彫刻の中に彫られた蝶を見つけると願いが成就されるといわれている。
 毎年番神堂を参拝するが蝶の話は知らなかった。
 次回は蝶探しに挑戦したい。
石川雲蝶といえば直ぐに魚沼市の西福寺開山堂の彫刻を思い浮かべるがまだ見たことがない。
いずれかの機会に見て見たい。

400段の石段を登り参拝 (イラストを模写)