北前船と船絵馬

kanazu362010-04-23

6月19・20日の両日、新潟市で第1回「新潟湊まちしもまち
歴史ウオーク」が開催される。
キャッチフレーズに“北前船の最大の寄港地・柳都にいがたを
歩く”「坂本龍馬グランプリウオーク新潟大会」と書かれ、
海援隊士集合写真が掲載されている。
写真には越後から入隊した白峰駿馬も龍馬と一緒に写っている。
かって北前船の寄港地として栄えた胎内市桃崎浜の桃崎浜文化財収蔵庫に沢山の
「船絵馬」が収蔵されていると知り18日見てきた。
北前船の寄港地桃崎浜
 北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて、上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の
 日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)、
 及び、この航路を行きかう船のことである。
 桃崎浜は荒川と乙大日川の河口に接し北前船の寄港地として栄え、集落には4軒
 (三浦・本間・渡辺・藤木)の大きな廻船問屋があった。
・船絵馬の収蔵(胎内市桃崎浜:桃崎浜文化財収蔵庫・4月18日)
 元区長内山謹次(82)さんの説明で収蔵庫を見学した。
 内装リニューアールが完了した桃崎浜文化財収蔵庫には船絵馬が85枚と2隻の模型
 和船が展示されている。
 船絵馬は、ケヤキやスギの木版に大阪堺の絵師が北前船などを描いたもので、大きさは
 横幅50センチから1m超のものまである。
 船主が海上の安全を祈願し神社などに奉納した。
 村の廻船問屋、三浦関右衛門・本間永吉郎・渡辺彦一郎・藤木広一郎が願主の奉納
 船絵馬もある。
 荒川神社に奉納された二隻の模型和船は、裏日本海運界に活躍した北前船(和船)の
 正確な模型の雨船と日和船と呼ばれ国の重要民俗文化財に指定されている。
 雨船は、明治5年(1768)の製作で全長356cm、幅78cm、高さ43cm。
 日和船は、嘉永3年(1850)の製作で全長348m、幅78cm、高さ52.5cm。
 いずれも当浜の廻船問屋三浦関右衛門が奉納したもので、二隻とも荒川神社祭礼時
 シャギリ船として用いられ、壁にはその時の様子を写した写真が飾られている。
 奉納されている船絵馬は、天保8年から明治13年までの約40年間の85点。
 荒川湊の船主・船頭たちが航海の安全を祈ったり、祈願達成のお礼として奉納したもの。
 それ以前のものは天保13年5月13日の荒川大火で集落のほとんどが焼け、その時の
 火災で荒川神社と船絵馬も焼失してしまった。
 内山さんが神社の境内から眼下の集落を見下ろし、「あそこに見えるチューリップ畑が
 当時の船着場で集落には郭もあり浜は賑わっていました。村内には4軒の廻船問屋の
 子孫が住んでいますよ」と。
・新潟白山神社の大船絵馬
 白山神社拝殿に新潟県文化財指定の大船絵馬が掛けられている。
 奉納したのは、天王の大地主市島家の分家にあたる水原の市島家の3代目市島次郎吉
 正光。
 絵馬は、1852(嘉永5)年ころ描かれたもので、御城米(幕領の年貢米)を新潟湊から
 積み出す光景と日が輝く江戸港での米の積み下ろしと大阪港での米の積み下ろしの
 様子が描かれている。
・番外:海援隊士白峰駿馬
 白峰駿馬:1847年6月17日(弘化4年5月5日)―1909年(明治42年4月1日)
 は、海援隊隊士で日本で最初の民間の造船所を設立した人物である。
 元の名を鵜殿豊之進で1847年長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれる。
 15歳の時、江戸に行き異父兄の鵜殿団次郎と交流があった勝海舟の門下生になる。
 2年後の1864年(元治元年)、長岡藩を脱藩し神戸海軍操練所に参加する。
 神戸海軍操練所が解散後は坂本龍馬が長崎で結成した亀山社中海援隊に参加し
 太極丸の船将となるなど活躍する。
 また龍馬暗殺直後の近江屋に急行している。
 その後菅野覚兵衛と共に1869年(明治2)、アメリカ合衆国に留学。
 ラトガース大学やニューヨーク海軍造船所で造船術を学ぶ。
 1874年(明治7)帰国。
 1878年(明治11)、日本では民間初の造船所となる白峯造船所を設立。
 1909年(明治42)2月2日、勲六等瑞宝章を下賜され4月1日死去。
新聞の北前船の最大の寄港地・柳都にいがたという記事に魅せられ胎内市の桃崎浜まで
足を伸ばし船絵馬と模型和船を見て感動した。

船絵馬がこんなに沢山 (イラストを模写)