信濃川水防フェアと横田切れ碑巡り

kanazu362010-05-21

沖縄は5月6日に梅雨入りした。
間もなく本州も梅雨に入り洪水のシーズンがやってくる。
「水防フェア」が燕市五千石の信濃川大河津防災センターで
開催されている。
水防フェアと大雨で信濃川が破堤した横田切れ碑などを見学した。
・水防フェア(燕市五千石:信濃川大河津防災センター・5月14日)
 会場には、いつもは静かでおだやかな川も、梅雨・台風などにより大雨が降ると、
 場合によっては堤防から水があふれ、 私たちの生活に大きな被害をあたえます。・・・
 この機会に、水害への備えについて考えてみてはと書かれた「パネル展示」「模型展示」
 がある。
 ・パネル展示
  ・信濃川地域の気象 ・近年の洪水の状況 ・災害から身を守るために ・水防工法
  ・まるごとまちごとハザードマップ ・燕市長岡市の洪水ハザードマップ
 ・模型展示
  ・木流し工 ・シート張り工 ・月の輪工 ・積土のう工 ・ブロック投入工
 パネルを見るだけで水害の恐ろしさが伝わる。
信濃川の破堤
 ・横田切れ碑(旧分水町横田地区・5月14日)
  横田切れはとは、1896(明治29)年7月22日に発生した水害。
  数日間続いていた大雨により信濃川の水嵩が増大し、新潟県西蒲原郡横田村
  (旧分水町横田地区)の堤防の部分が約300mに渡って決壊した。
  これにより新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は18000ha、床下・
  床上浸水が合わせて43600戸で、そのうち家屋流出は25000戸であった。
  洪水による死者は43名だったが、水が引かず何か月間も悪水に悩まされ、伝染病や
  疫病などの発生で数千人の人が亡くなっている。
  破堤場所には、「横田破堤の跡」の標柱と「横田破堤記念碑」が建ち付近は横田切れ公園
  として整備され東屋が建ち、横田切れの説明・ 古文書からの絵・横田切口説きなどが
  飾られている。
  横田切口説きは「洪水さわぎ やれやれみなさま洪水さわぎ 山の果てから海ぎわ
  までも田畑そうたい家屋も水でぬれて流れてみる目もあわれ・・・」と始まる。
 ・宝光院の横田切れ痕跡と水位標(新潟市西区槇尾:宝光院・5月14日)
  横田切れは、1896年(明治29)7月22日に発生した水害。
  数日間続いていた大雨により信濃川の水嵩が増大し、新潟県西蒲原郡横田村
  (旧分水町への編入を経て、現燕市横田地区)の堤防の部分約300mを主として、
  多くの堤防が決壊した。
  この破堤で新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は1万8000ヘクタール、
  床下・床上浸水が合わせて4万3600戸、そのうち家屋流出は2万5000戸。
  宝光院本堂の柱には、明治29年7月22日に起きた信濃川の大洪水「横田切れ」で
  濁流により床上浸水したときの痕跡がくっきりと残る。
  山門左脇に、明治29年7月22日に起きた大洪水横田切れの水位を示す「横田切
  水位標」が建てられている。
 ・曽川切れ記念碑と横田切れ跡(新潟市江南区楚川・5月14日)
  黒埼町大野地区から信濃川に架かる信濃川大橋を渡り東詰めに出ると楚川地区。
  橋から下流に約200m進むと左側に「横田切れ跡石柱」と「曽川切れ記念碑」が建つ。
  石柱と記念碑は1986年10月2日「ゆきしろ同人」が建立した。
  記念碑には曽川切れの様子が書かれている。
  「ああ おやげなや(かわいそうの意)曽川が切れた 抱いて寝た子も ながされた・・・
  大正6年(1917)10月2日未明のことで正に“曽川が切れ”を象徴する口承である。
  連日のしのつく雨でふくれあがった大川端の水は河口に吐き切れず堀という堀は溢れ
  て新潟市街路を数千戸が浸水していった」の書き出しで始まる。
  碑文には被害状況と石碑建立経緯が書かれている。
・番外:水害に備え信濃川の堤防を合同巡視
 梅雨や台風シーズンを前に国土交通省信濃川河川事務所などでつくる「信濃川・魚野川
 水防連絡会」が19日、長岡市燕市信濃川の堤防に異常がないか合同巡視を実施
 した。
大雨で信濃川が破堤し大きな被害を受けた集落の数々。
破堤記念碑の碑文が当時の様子を現代に語り継ぐ。

ここも破堤した場所 (イラストを模写)