越後の大名展

kanazu362011-08-14

長岡の新潟県立歴史博物館で「越後の大名展」が開催されて
いたので8月13日見てきた。
天下統一の過程で慶長3年(1598)に上杉氏が会津
移されたのちも、越後には越前から堀秀冶、ついで徳川家康
6男松平忠輝が入封し、越後一国支配する大名が配置された。
しかし、松平忠輝が改易されると、越後は大阪陣で戦功をあげた大名らに分割支配され、「小藩分立」の時代に。
時は移り越後11藩が明治維新を迎える。
・越後の大名展
 会場に入ると豊臣秀吉上杉景勝に対し、越後から会津へ移るよう命令した国宝の「豊臣秀吉朱印状」が飾られている。
 書状には、上杉景勝会津移封に対し、武士はすべて連れて行き、農民は連れて行ってはいけないとかかれている。
 上杉景勝の越後支配時代、新潟市の近郷に「木場城(旧木場村:現新潟市)」があった。
 木場の郷土誌・越後木場城(青木宏著)に「会津移封と木場城」のことが書かれている。
 慶長3年(1598)正月10日、上杉景勝豊臣秀吉に越後から会津へ移封を命じられた。
 「家中の侍は勿論、中間小者奉公人に至るまで一人残らず召し連れて行くように。
 若し立退かない者があったら成敗を加えるよう。ただ田畑に関係していて検地帳に上
っている百姓は連れて行ってはいけない」と強く命令された。
 国替えは、民族の移動にも比すべき大事業である。
 武士は先ず妻子を送り出し、武具や家財道具等の荷物を搬送する。
 木場城や上屋敷下屋敷等の住人も、任務や後始末が終わると一族郎党を引き連れて
会津へ移った。
 後始末に木場城の始末がある。
 番城である木場城も、当時のならわしとして、堀は埋められ、土塁は崩され、楼門は
壊されて原形を止めぬまでに破壊された。
上杉景勝会津移封
  豊臣秀吉政権によって慶長3年(1598)に上杉景勝会津120万石の領主に。
 ・越後一国支配の時代
  越後には上杉家に代わり越前国から堀秀冶が45万石の大名として入封するが、家中騒動の責任を問われ2代12年で改易される。
  代わって越後には徳川家康の6男松平忠輝75万石の大名として入封するが、大阪夏の陣に遅参したことなどの理由で元和元年(1598)に改易される。
  松平忠輝越後国支配は約6年。
  堀氏と松平忠輝による約18年が越後一国支配の時代。
松平忠輝の改易と小藩分立
 松平忠輝の改易により元和2年(1616)の越後国の大名配置は、
 ・村上藩9万石 ・新発田藩5万石 ・沢海藩1万4000石 ・三条藩4万石余
 ・長岡藩8万石 ・藤井藩2万石 ・長峰藩5万石 ・高田藩10万石
 の小藩に分立。
明治維新まで継続した越後11藩
 ・糸魚川藩1万石(親藩越前松平家) ・高田藩15万石(譜代:榊原家)
 ・椎谷藩1万石(譜代:堀家) ・長岡藩7万4000石(譜代:牧野家)
 ・与板藩2万石(譜代:井伊家) ・三根山藩1万1000石(譜代:牧野家)
 ・村松藩3万石(外様:堀家) ・新発田藩10万石(外様:溝口家)
 ・三日市藩1万石(譜代:柳沢家) ・黒川藩1万石(譜代:柳沢家)
 ・村上藩5万石余(譜代:内藤家)
・越後の大名家ゆかりの調度品
 会場には明治維新まで継続した越後11藩の大名家ゆかりの調度品が展示されている。
越後の大名展を見て、大国越後は11藩の小藩に分立されたことを知り、初めて三日市藩と黒川藩の存在を知った。
転勤で新潟県県内の各地に勤務した。
これまでに糸魚川藩高田藩・椎谷藩・長岡藩・与板藩・三根山藩村松藩新発田藩村上藩の9藩を訪れているが、三日市藩と黒川藩の2藩はまだ訪れていない。
機会があったら是非訪ねたい。

江戸末期の越後藩図を見上げる (イラストを模写)