今に生かせるか武家諸法度

kanazu362007-01-12

1月9日防衛庁防衛省に昇格、防衛庁長官
防衛相となり防衛大臣が誕生した。
省昇格と同時に自衛隊の海外活動が「付随的任務」から
「本来任務」に格上げされると新聞に書かれたいる。
10日のNHKテレビ”その時歴史が動いた「戦国の剣豪太平を築く柳生宗矩」”を放送した。
今日のその時は、寛永12年(1635)6月21日武家諸法度が制定された日。
放送から言葉を拾った。
武家諸法度徳川秀忠版と家光版などがある
 秀忠版は、恐怖政治の道具として 
 家光版は、平和維持のを手段として 
太閤検地で土地を隠したと疑われ、柳生家の領地は没収され近江の国へ落ちる
・剣豪の名声から家康に召され家康が柳生石舟斎の無刀流に破れ、子宗矩が250石で
 徳川将軍家の剣術師範となる(柳生新陰流は今から400年前に誕生)
・剣の道ではなく忍びの技での情報収集が任務に(武士にとって忍びは恥とされた時代)
 (意に沿わない仕事でも、与えられたチャンスを生かすか殺すかが人生の分かれ目)
・関が原の勝利で、情報収集の武功が認められ恩賞として旧柳生領を賜る 
・元和元年(1615)7月7日、秀忠が武家諸法度を発布 (治まりて乱を忘れず)
・諸大名が将軍家と同じ柳生新陰流を学ぶ
・友人坂崎直盛の謀反で使者として直盛を説得自害させ事件を収める
 約束に反し坂崎家は、お家取り潰し
(偽りで友人を失い負い目を負う。坂崎家の家紋二蓋笠を柳生家の家紋とする)
・禅僧沢庵に学ぶ
 「心を動かさぬことである」「こだわらぬ心こそが動かぬ心である」
・元和7年(1621)三代将軍家光の兵法指南に
 家光「私は剣を遊びで習おうと思ってはいない。私の満足するような剣を教えてほしい」
・元和9(1622)年家光第三代征夷大将軍
・兵法家伝書を著す
 悪を殺してあまたの人びとを活(い)かす。それができれば人を殺す刃(やいば)も
 人を活かす剣(つるぎ)になるはずだ。すなわち「活人剣」
・世の動きを見て 乱れそうになったら 乱れる前にれをうつ手を打つ
 家光と忠長の兄弟合戦を乱れる前に手を打つ
 寛永7年(1630)忠長大阪城を所望し甲府に監禁蟄居
 寛永10年(1633)忠長高崎で自刃 合戦を未然に防ぎ太平の世を築く
寛永9年(1632)総目付(のちの大目付)に任命され諸大名の動勢監視
寛永12年(1635)6月21日武家諸法度発布
 ・ いかなる場合でも幕府の命令ないかぎり大名は軍事力を行使してはならない
 ・ 大名は領民の暮らしの安定だけに心を砕くべきである
・敵を倒す刃から人身の安定を図る活人剣を武家諸法度に取り入れ 
寛永13年(1636)柳生1万石の藩主となる
・のちに家光は「吾(われ)天下統御の道は宗矩に学び足り」と
・正保3年(1646)3月20日俸禄1万2500石の返上を申し出る
・正保3年(1646)3月26日死去(76歳)
番組の終わりに、徳川230年余の太平の礎は「兵法家伝書」と「武家諸法度」に
よって築かれたと結んだ。
戦前の日本は、軍部の増長と独走が敗戦を招き国民を悲劇に追いやった。
防衛庁防衛省に昇格した時に、戦国の剣豪柳生宗矩武家諸法度を放送したのは
偶然か。
武家諸法度
・いかなる場合でも幕府の命令ないかぎり大名は軍事力を行使してはならない
・大名は領民の暮らしの安定だけに心を砕くべきである
今に生かせるか武家諸法度、現代版に改め、平和日本を築いてほしいと願う。
思わず、本棚にある山岡荘八著「柳生宗矩全4巻」に手が。
太平の世は (イラストを模写)