横田切れ水位標と新川開発創業者   供養塔

kanazu362007-07-13

今年も7月13日は、朝から雨が降っている。
昨年は、大雨洪水警報が発令されていた。
2004年7月13日、新潟県内を襲った集中豪雨は、
15人の犠牲者を出し家屋などに甚大な被害をもたらした。
被災地の三条市や旧中之島町(現長岡市)や見附市で「7・13水害」
犠牲者を悼む追悼式が行われる。
九州地方は連日の大雨で被害が発生している。
台風4号も日本に接近している。
水といえば蒲原の人たちは、信濃川や中の口川などの氾濫で泣いていた。
「横田切れ」や「三潟地方の水腐田の苦労」は、多くの人たりが知っている。
・横田切れと水位標
 近くの宝光院(新潟市槇尾)に、横田切れの痕跡が残り水位標もあると
 聞かされ7月6日宝光院を訪ねた。
 山門左脇に、明治29年(1896)7月22日に起きた大洪水
 横田切れの水位を示す「横田切れ水位標」が建てられている。
 本堂に入ると住職は、表面右側柱の垂れ幕を上げ「横田切れで
 本堂もこの痕跡のところまで濁流に飲み込まれました」。
 この柱が「考える柱」と呼ばれています。
 本堂のあちらこちらの柱に濁流の痕跡が残っている。
・新川開発創業者供養塔
 7月1日新潟市高山の日蓮宗「蓮久寺」で、西蒲原を湛水被害から
 守るため、江戸時代に新川を掘削した人々の功績をたたえる慰霊法要が
 行われたと新聞に。
 7月6日、蓮久寺を訪ね新川開発創業者供養塔をお参りした。
 山門をくぐると参道右側に立派な新川開発創業者供養塔が建っている。
 石碑(昭和43年5月建立)には、三潟地方の治水は、蒲原全郡の運命に
 かかり水害を救って美田を開くことは先覚者の悲願だった。
 文化4年(1807)中の口川の決壊による大惨事は、幕府を動かし・・・。
 文化14年(1817)幕府から許可が下り、文化15年(1818)2月
 長岡領16名・ 村上領5名の庄屋により着工した。
 ・文政3年(1820)二樋付込み事業
 ・明治42年((1909))に煉瓦造り
 ・暗閘となる
 昭和30年(1955)には、西川を水路橋として立体交差する。
 (西川の下を新川が流れる日本でも珍しい立体交差する川)
 この新川の開発により三潟地方はじめ蒲原全郡は水害を免れ、水腐田は
 乾田となり豊穣の楽土と生まれ変わった。
 工費に投じた私財は回収できず多くの亡命の悲運に陥ったと。
田切れによる大惨事が政府を動かし、大河津分水路の掘削と開発事業へと。
中の口川の決壊による大惨事が幕府を動かし新川の掘削と開発事業へと。
多くの人たちが水の恐ろしさを知り水と闘ってきた。
台風4号が九州に接近、日本列島に被害がなければいいが。
間もなく日本列島は、梅雨明けする。
大雨は・・・。
犠牲者の追悼 (イラストを模写)