信濃川大河津可動堰見学ツアーに参加

kanazu362007-09-02

9月2日の市報にいがたに「新潟市の治水と
大河津分水」を5回にわたり、100年目の
節目を迎えた大河津分水と新潟市の治水について
紹介しますと。
1回目は、「水害と隣り合わせの水の都」。
新潟市は、8月28日未明からの大雨で
・内野地内で越後線の線路脇の盛り土が流れ出し不通に
・小針4丁目地内の大堀幹線周辺では、下水管に大量の
 水が流れ込みマンホールの蓋が浮き上がった
新潟市内全体で住宅82棟に床上・床下浸水の被害が出た。
信濃川河川事務所では、“もっと知ろう千曲川信濃川”と題し、大雨と闘う
信濃川大河津の姿を知る講座と「信濃川大河津可動堰見学ツアー」を5月から
毎月1回開催している。
曇り空の中、8月30日の「講座と見学ツアー」に参加した。
・大河津分水路の歴史 
信濃川治水紀功之碑から抜粋(信濃川大河津資料館前建立)
 大河津分水構想の始まりは、今から約250年前の亨保年間
 (八代将軍吉宗の頃)にさかのぼる。
 当時越後平野は、3から4年に一度信濃川の洪水で一面が泥の海と化し、
 その被害は八百余村に及んだ。
 洪水によって年貢が納められず、一家の主人が水牢などの刑に、妻や子が
 身を売った。
 こうした惨状を見かねて寺泊の本間数右衛門・河合某が、信濃川を大河津
 付近から約10キロの人工水路を掘って洪水を分水する案を幕府に願い出た
 のが、分水構想の始まり。
 分水着工の運動は、約200年も延々と続いた。
 明治42年着工された分水工事は、分流点で730m、河口で180m、
 延長10キロの水路を掘り割るもので、その土量は2880万立方メートル
 新潟県庁を升にして約134杯分、延べ1千万人の労力を要し15年間の
 歳月をかけた大事業。
 大河津分水年譜
 ・明治42年着工 ・大正11年工事完了通水 ・大正13年工事竣工式
・大河津分水主な動き
 1716年から1735年(亨保年間) 
 本間数右衛門・河合某らが大河津分水建設を幕府に請願
 1870年(明治3年) 工事に着手するが工事中止
 1896年(明治29年) 横田切れ(未曾有の洪水氾濫被害が発生)
 1909年(明治42年)大河津分水工事開始
 1922年(大正11年) 大河津分水通水
 1927年(昭和2年) 自在堰陥没・倒壊
 1931年(昭和6年) 信濃川補修工事完了(可動堰、第一第二床固完成)
 1982年(昭和57年) 大河津で観測史上最高水位を記録
 1992年(平成4年) 洗堰改築事業に着手
 2000年(平成12年) 新洗堰が完成(通水)
 2002年(平成14年) 洗堰事業竣工・旧洗堰が国の登録有形文化財
 2003年(平成15年) 可動堰改築事業に着手
 2006年(平成18年) 可動堰本体工事に着手
・大河津分水の仕組みと役割
 信濃川は、旧分水町五千石で信濃川と新信濃川(大河津分水路)に分かれる。
 信濃川には、洗堰(あらいぜき)があり、大河津分水路には可動堰(かどうぜき)
 がある。
 ・可動堰の役割
  可動堰の開放と閉め切りで信濃川下流(新潟方面)への水量を調整し洪水被害を
  防ぐ。 
  通常は、生活用水・かんがい用水・工業用水などに必要な水量(毎秒270
  立方メートルまで)を流す。
  信濃川下流渇水時には、可動堰を閉め切り、全量を洗堰から下流へ流す。
 ・可動堰の役割
  信濃川下流へ流す以外の水は、可動堰を開き大河津分水路から日本海へ流す。
  信濃川下流の洪水時には、洗堰を閉め切り可動堰を開き全量を直接日本海に流す。
 ・その他の堰など
  大河津分水路には、川底が掘れるのを防ぐために可動堰下流に第一床固
  (とこがため)が、河口には第一床固と副堰堤(えんてい)がある。
  他に大河津分水路内には、4つの床留(とこどめ)がある。
  それぞれの堰や床固や床留は、大河津分水路を守り信濃川の洪水を防ぐ重要な
  役割がある。
日本一の大河信濃川は、明と暗の二つの顔がある。
明のとき顔は、福の神の顔であり、越後平野を潤す。
ひとたび大雨が降ると暗の顔に大変身、悪魔の顔むき出して大暴れ、大洪水を
起こし越後平野を一面泥の海に化す。
人の力が、悪魔の顔を少しでも和らげるために今日も新可動堰の大工事が続く。
新可動堰の完成予定は平成23年、新可動堰への通水は平成23年の予定。
新可動堰の事業完成は平成25年の予定。
大雨が降って信濃川が増水しても安心して暮らせるのは、大河津分水路の
おかげであることを今回の講座と見学ツアーで知った。

新可動堰ができると分水路は (イラストを模写)