八幡林官衛遺跡から古代越後を知る

kanazu362007-09-03

9月3日の新聞に「国土交通省は、
各地に残る旧家などの歴史的な建物や城跡、
古墳の改修・復元と合わせ、周辺の街並みも
整備する地方自治体や民間団体の事業に対し、
費用の半額を補助する制度を来年度に新設することを決めた」と。
新潟市歴史博物館で開催されていた
「西暦647年にいがた“渟足柵(ぬたりのき)の謎にせまる”」展が
9月2日に終了した。
1990年旧和島村八幡林で「八幡林官衛(かんが)遺跡」が、発見された。
遺跡からは、「沼垂城」と書かれた木簡が発見され謎の渟足柵に一歩近づいた。
「古代ロードと古志(こし)の里“八幡林官衛遺跡をめぐって”」展が
9月9日まで、旧和島村良寛の里わしま歴史民俗資料館で開催されており
8月30日見学してきた。
資料によれば、大化の改新(645年)で政治体制を強固なものにした大和朝廷は、
中国の法制度を見習って、律令制度を確立し合わせて各地に役所(官衛)を整備した。
その一つが、和島村の八幡林官衛遺跡である。
・古代越後国の誕生
 大化の改新後、大和朝廷天皇を中心とする中央集権国家を築いた。
 このころ、東北地方には大和朝廷に属さない「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々
 がいた。
 蝦夷の備えに、647年渟足柵をおき、648年磐舟柵をおいた。
 648年ころまでは、大和朝廷北陸地方を「コシ」と呼び「越」「古志」「高志」
 などと表した。
 690年ころ、「越国」は越前・越中・越後の三か国に分割された。
 越後とは、コシという国の中で都から一番遠い場所を意味する。 
 702年、越中国に属していた蒲原郡・古志郡・魚沼郡・頚城郡の4郡は越後
 の国に入れ、708年、北部に出羽郡を設置した。
 712年には、出羽郡が出羽国となり、最終的に古代の越後国の領域が確定した。
 越後国には、磐船郡・沼垂郡・蒲原郡・古志郡・魚沼郡・頚城郡の6郡が置かれた。
・八幡林官衛遺跡
 遺跡は、旧和島村の島崎・両高地域の標高40m前後の丘陵とその周辺の低湿地に
 広がる約4万㎡の広さ。
 地元ではこの周辺を「長者原」と呼び、昔から長者伝説が伝えられていた。
 平成2年からの発掘調査で、大型掘立柱建物跡や「郡司符」「沼垂城」木簡など
 官衛に関連する重要な遺構や遺物の発見が相次ぎ、全国的にも注目された。
 遺跡が営まれた時期は、奈良時代から平安時期(8世紀前半から10世紀前半)。
 平成7年3月国の史跡に指定された。
 官衛とは、役人が勤務する役所のこと。 
 木簡とは、墨で文字が書かれた木の板のこと。
・八幡林官衛遺跡の出土品
 沢山の出土品が展示されている。
 主な物は、「沼垂城」木簡・「郡司符」木簡・「封緘(ふうかん)」木簡・
 「貢進文書・付け札」・「墨書土器」・「帯飾り」・「太刀外装具」・「都の製品」・
 「土器・木製品」等など。
最近、八幡林官衛遺跡から少し離れた、旧分水町五千石地域で「五千石遺跡」が
発見された。
現在発掘調査中であるが、どんな大発見があるだろうか。
8月は、「渟足柵(ぬたりのき)の謎にせまる」展や「八幡林官衛遺跡」展で
古代ロマンの世界に胸躍らせ古代の歴史を紐解いた。

八幡林遺跡出土品を見る (イラストを模写)