写真展で見る母シカと子野口英世

kanazu362007-09-13

旧安田町保田出身のアマチュア写真家石塚三郎氏が
残した、野口英世ゆかりのガラス乾板写真パネル展
「わが友野口英世」が、9日まで阿賀野市の吉田東伍
記念博物館で開催されているので7日見てきた。
昭和43年から3年間、水原町(現阿賀野市)に勤務したので安田町は懐かしかった。
・石塚三郎(歯科医師・アマチュア写真家)の略歴
 明治9年(1876)8月旧安田町保田で生まれ、小学校を卒業後、吉田東伍の生家に
 奉公。
 17歳で上京、日本歯学界の血脇守之助のいた高山歯科医学院の学僕となる。
 ここで野口英世と出会い起居をともにして学習に励む。
 21歳で歯科医師資格を取得、清国へ渡り帰国後、長岡で開業。
 31歳で新潟県歯科医師会の会長に就任。
 大正13年(1924)から衆議院議員を2期つとめる。
 野口英世がアフリカで殉職すると「野口英世記念会」の創設・運営に参画、晩年には
 同会の理事長に就任。
 昭和33年(1958)11月東京で死去(82歳)。
野口英世の略歴
 明治9年(1876)11月今の福島県耶麻郡猪苗代町で生まれ、1歳半の時、いろりに
 落ちて左手に火傷を負い、15歳の時会津若松の医院で手術を受け感激、医師の道を
 志す。
 19歳の時、高山歯科医学院の血脇守之助を頼って上京、同医院の学僕となる。
 20歳で医師資格を取得、翌年北里柴三郎の伝染病研究所の助手になり細菌学を
 研究した。
 明治33年(1900)、24歳で渡米、大正4年(1915)9月5日、15年ぶりに帰国、
 母シカと再会。
 大正7年(1918)5月、ガーナ・アクラで黄熱病研究中に感染し死去(51歳)。
・英世の母野口シカと石塚三郎
 会場には、英世に帰国を促す手紙と帰国後、母シカと英世が中田観音をお参りする
 写真が飾られていた。
 大正4年(1915)5月、米国で活躍する親友野口英世のもとへ「母堂は一見頬痩せ、
 気色衰え・・・、余生の長きを望み得ざる有様・・・」という一時帰国を促す手紙に添えて、
 石塚自身が撮影した猪苗代の風景・母親シカの写真を送り、英世の15年ぶりの帰国を
 後押しした。
 写真は、
 ・大正4年(1915)9月5日撮影 中田観音堂
 ・大正4年(1915)9月5日撮影 中田観音へ帰国報告する野口親子
 ・大正4年(1915)9月 野口英世が撮影したといわれる母シカの写真
 ・英世が持参した妻メリーの写真
 等が。
・英世の母野口シカが月参り祈願した中田観音(会津美里町
 会津三十三観音の30番札所。
 会津が生んだ医聖・野口英世の母シカが、息子のやけど治療と立身出世を祈願し
 月参りをしたことで知られている。
・恩師小林栄と血脇守之助
 ・小林栄(1860から1941) 
  野口英世の恩師、地方教育の先駆者。
  明治22年(1889)9月福島県猪苗代湖畔の三ツ和小学校で左手の不自由な
  野口精作(英世)と出会い、その才能に注目上級学校への進学を強く勧めた。
  以後一貫して援助し続けた。
  英世は、小林栄・シュン夫婦を父上・母上と呼び、実の母シカを「城母」または「城潟の母」
  と呼んだ。
  野口英世は、明治9年(1876)11月9日福島県耶麻郡猪苗代町(当時三ツ和)
  三城潟に生まれる。
 ・血脇守之助(1870から1947)
  東京歯科大学の建学者、石塚三郎・野口英世の恩師。
親子の絆、母は子を思い、子は母を思う。
中田観音参りと言う言葉に、妻の母を連れ妻と三人で中田観音を参拝した記憶が甦った。
中田観音は、会津「ころり三観音」の一つである。
妻の母に、「子に迷惑をかけたくない、会津“ころり三観音”を参りしたい。お参りのご利益で
ころりとあの世に行きたい」と言われたことが・・・


母と子 (写真を模写)