良寛終焉の地和島(島崎)を歩く

kanazu362007-10-14

良寛は、1758年(宝暦8)出雲崎の名主兼神官
橘屋山本家の長男として生まれた。
良寛は、1831年(天保2)和島(島崎)で遷化74歳。
10月5日、良寛終焉の地和島(島崎)の「はちすば通り」を 
マップを頼りに歩いた。
和島村
 和島村は、新潟県の中央にある三島郡の北部にかつて存在した村。
 2006年1月1日長岡市編入されて消滅した。
・「はちすば通り」とは
 良寛は晩年和島村島崎の木村家に身を寄せ、足掛け5年間その地域の人々と
 穏やかな 日々を送った。
 自らを厳しく律し、決して名利に走らず修行をし続けてきた。
 良寛の生涯で唯一気を許したといってもいい尼僧、貞心との初めての出会いが
 この地「島崎」です。
 良寛が74歳で遷化するまで二人の交流が続き、数多くの相聞歌が残されています。
 貞心尼は、良寛死後、その歌集を「蓮の露(はちすのつゆ)」として書き残しました。
 平成3年4月「良寛の里」がオーポンした。
 良寛と貞心が歌を詠み交わしながら歩いたであろう、この木村家から良寛の里までの
 通りを「はちすば通り」と名付けた。
・わがやど歌碑(昭和49年12月建碑)
 島崎橋のたもとに「桐島村道道路元標」の碑があり、その脇に歌碑がある。
 「わが宿を 訪ねて来ませ あしびきの ・・・」
良寛禅師遷化碑(明治44年7月建碑)
 庄屋木村家表門の右脇に良寛禅師遷化碑が建つ。
 良寛は文政9年(1826)10月から天保2年(1831)正月までの4年余
 木村元右衛門方の庵室に身を寄せこの地で大往生をとげられた。
良寛禅師庵室跡碑(大正和9年春建碑)
 木村家表門から屋敷内に入ると庭の奥に良寛禅師庵室跡碑がある。
 良寛は、国上山の乙子神社側庵を出て島崎の木村元右衛門利蔵家の裏庭の庵室へ
 移り住んだ。
良寛禅師墓碑(天保4年3月建碑)
 木村家菩提寺隆泉寺本堂の裏手に良寛禅師墓碑がある。
 良寛禅師墓碑を真中に、右に木村家代々の墓・左に実弟由良の墓がある。
 墓の周りには赤い彼岸花の花が咲く。
・たくはつ良寛像(昭和38年11月建碑)
 隆泉寺参道左側に右手に編み笠を持ち左手に鉢を持つ托鉢姿の良寛の立像が、
 参拝者を出迎える。
大蔵経碑(明治40年1月建碑)
 隆泉寺参道左側に大蔵経碑がある。
 「我が兄(10代元右衛門)終焉の夕、密かに我を召し・・・一大蔵経を建立せんと
 欲す。 ・・・」
 願主 能登屋元右衛門 沙門良寛謹書
・出田の宮詩歌碑(平成12年3月建碑)
 隆泉寺の近くに宇奈具志神社がある。
 宇奈具志神社参道左側に出田の宮詩歌碑がある。
 良寛の住む庵室からは近い。
 出田の宮境内で、境内を吹きぬける風に涼を求め蝉の声を聞きその様子を歌に・・・
・遍澄法師の墓(昭和35年8月建碑)
 村道を挟み宇奈具志神社と向かい合うように妙徳寺がある。
 本堂の左側に遍澄法師の墓がある。
 遍澄は、享和2年(1801)島崎の鍛冶屋甚五右衛門の長男に生まれる。
 幼少にして島崎の妙徳寺に上がり、読み書きを習い僧となった。
 文化13年(1816)に国上山の五合庵を訪ね、願って良寛の法弟となり、薪水を
 はじめ、良寛の身の回りの世話をしたといわれる。
 良寛の臨終の際に遍澄の膝を枕に遷化されたという。
・出逢いの庵
 良寛の里の一角に「出逢いの庵」がある。
 庵の中央に囲炉裏がある。
 天井からじざいかぎが下がり鉄瓶がかかっている。
 壁には、「良寛と貞心尼」が囲炉裏を挟み語り合う中島佳香画伯の絵が掛けられて
 いる。
・出逢いの庵から良寛の里美術館へ
 出逢いの庵から良寛の里美術館へと続く回廊には、良寛の生い立ちを描いた絵が
 掲げられている。
 母の国佐渡を眺め、母を思い出す良寛
 子どもたちと凧揚げする良寛など等が。
 回廊の絵は、心を癒し和ます。
島崎橋から出逢いの庵までの「はちすば通り」は一本道だ。
良寛終焉の地和島(島崎)の「はちすば通り」を歩き良寛と貞心尼を偲んだ。
福祉施設への慰問やコンサート活動を行っているNPO法人新潟福祉芸塾座が、
謡曲「蓮の露」(作詞:春木昭・作曲:西村修二・歌:磯部真由美)のCDを発売、
「収益金は五合庵改修費用に寄付する予定」と新聞に。

貞心尼 (イラストを模写)