良寛の父以南のふる里与板町を歩く

kanazu362007-10-17

旧与板町は、良寛の父以南のふる里である。
父以南は、与板の割元新木与五右衛門富竹の
次男として生まれ出雲崎の名主・橘屋山本家に
婿養子に入った。
与板町は芸術・文化の町だ。
日本画の大家、三輪兆勢(名誉町民)や大矢黄鶴・大矢紀・大矢十四彦の
ふる里でもある。
戦国時代は直江兼続の城下町として、江戸時代は井伊家2万石の城下町として
栄えた歴史と芸術・文化の町。
与板町の町木は「桜」、町花は「花菖蒲」。
与板町に、良寛の詩歌碑公園があると聞いた。
町がPRする「よいた良寛マップ」には、碑など35箇所と良寛詩歌碑公園の詩歌碑20基が
紹介されている。
マップを持ち良寛の父以南のふる里与板町を歩いた。
和島村良寛終焉の地)から塩之入トンネルを抜け与板町に入り町を歩き、
阿弥陀瀬トンネルを経て和島に戻った。
・塩之入峠歌碑
 与板町と和島村の境に塩之入峠がある。
 良寛も貞心尼も通った峠。
 塩之入トンネルを抜けると右側の小さな公園の一角に歌碑が建つ。
 良寛はこの峠を、「壊したいほど」と詩に詠んでいる。
 峠道は文政2年(1828)与板藩の命により改修され、その喜びを歌にして詠んだもの。
・新木家割元庄屋跡(良寛の父の生家)
 代々与板の割元庄屋の家柄。
 以南は8代与五右衛門富竹の次男。
 宝暦5年(1755)出雲崎の橘屋山本家に婿養子に入った。
・以南の句碑
 旧新木家跡地に句碑が建つ。
 「朝霧に一段低し合歓(合歓)の花」
・新木家代々の墓
 7代与五右衛門富春・8代与五右衛門富竹・9代与五右衛門勝富(以南の兄)らが
 葬られている。
良寛・三条地震の詩歌碑
 文政11年(1828)三条を中心に大地震があった。
 与板藩主井伊直経が徳昌寺で無縁仏の法要を営んだ。
 これを聞いた良寛が、感激して作った詩と歌。
・由之の歌碑
 由之は隠居後、与板の松下庵に仮住まいした。
 島崎に住む良寛との往来もこのこれである。・・・ 
良寛詩歌碑公園(いしぶみの里)
 町内を流れ旧黒川の川辺に東京葛飾堀切菖蒲園より株分けされた6万本の菖蒲で
 彩られる公園。
 園内には、良寛さんゆかりの20基の詩歌碑が建つ。
 ・貞心尼との昭和碑1と2・春夜二三更の碑・跡も涙の碑・維馨尼(いきように)歌碑 
 ・酒の戒語の碑・弟由之への碑・由之の歌碑・父以南の句碑・与板入の碑
 ・子を思う父の碑・踊り手拭の碑・蛍となりての碑・三条地震見舞状の碑
 等など。
詩歌碑は、良寛が詠んだ詩歌が独特の良寛文字で書かれている。
長岡から来たという4人組の男性が、良寛詩歌碑公園で詩歌碑の拓本を取っていた。

良寛詩歌碑を観る (イラストを模写)