坂井輪地域探訪西川の始まりから終わりまで

kanazu362007-10-27

“聞いてみよう・見てみよう坂井輪ってどんなとこ??”
坂井輪地区公民館主催の地域探訪講座が始まった。
4回目の10月23日は、信濃川水系西川の
始まりから終わりまでの現地探訪だった。
現地探訪のしおり「西川の始まり“信濃川大河津水問から平島西川水門まで”」が
配布された。
10月23日午前9時30分新潟市西区役所出発、バス2台で参加者は29名。
・旧岩室村夏井のはさ木を見物
 稲刈りの終わった田圃のあぜ道に沿って約600本のはさ木(タモギ)が残る。
 青空の中遠くに角田山の雄姿が。
・客土の丘(旧分水町)車窓から
 明治42年(1909)大河津分水は着工され大正11年(1922)完成した。
 大工事の掘削土砂はいずこに?
 大工事で掘削された土砂は157万立方メートルといわれる。
 その土砂の置き場とした自分の土地を提供したのが分水町源八新田の森山一郎氏。
 その大量の掘削土砂の一部は、田圃の面の低い場所へ土を盛る客土として使われた。
 客土の残った土が、長さ1.5kmほどの丘になって今も残っている。
 この丘を「客土の丘」と呼ぶ。
 「客土の丘」がある場所は、かつて腰まで水に浸かる深田が広がっていた。
 森山一郎氏の功績は記念碑に刻まれている。
・横田切れ公園と横田破堤記念碑(旧分水町)
 横田切れ(よこたぎれ)は、1896年7月22日に発生した水害。
 数日間続いていた大雨により信濃川の水嵩が増大し、新潟県西蒲原郡横田村
 (旧分水町横田地区)の堤防の部分が約300mに渡って決壊した。
 これにより新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は18000ha、床下・
 床上浸水が合わせて43600戸で、そのうち家屋流出は25000戸であった。
 洪水による死者は43名だったが、水が引かず何か月間も悪水に悩まされ、伝染病や
 疫病などの発生で数千人の人が亡くなっている。
 破堤場所には、「横田破堤の跡」の標柱と「横田破堤記念碑」が建ち付近は
 横田切れ公園として整備され東屋も建っている。
・大河津分水資料館(旧分水町)
 資料館展望室から信濃川を眺めた。
 信濃川は、旧分水町五千石で大河津分水路と信濃川に分岐する。
 大河津分水路は、分水町を経ても野積から日本海
 信濃川は、蒲原平野を流れ新潟市内を経て日本海へ。
 分岐点付近の川幅は、大河津分水路が730m、信濃川が160mと大差がある。
・西川導水門(旧分水町)
 蒲原平野を潤す西川の水源は、大河津分水路に設置されている取水口から川水を
 取り入れ西川導水門を通り分水町・弥彦村・岩室村・巻町・西川町と蒲原平野の
 西側を流れ新潟市の平島で再び信濃川に合流する。
 その長さは44.5kmの1級河川である。
・西川水路橋(新潟市槇尾)
 新潟市槇尾で新川と西川が立体交差する。
 「川(新川)の上に川(西川)が流れる」と小学校の社会科の教科書にも紹介される
 全国でも珍しい光景が見ることのできる場所。
 新川開削当時、新川は西川の底に木製の底樋を埋め西川と交差させていた。
 その後、底樋は木製のものからレンガ・花崗岩・コンクリート製へと改修され、
 1955年(昭和30年)には現在のような西川水路橋となった。
・新川河口排水機場(新潟市内野)
 新潟県西蒲原は、日本海信濃川中ノ口川に囲まれた輪中地帯で、標高1.0m以下の
 土地が全体3分の1を占め、北端の新潟市では標高0mから−1.5mと低くい。
 そのため、排水機場がなかった昔は、降雨のたびに洪水、湛水といった被害を幾度となく
 繰り返していた。
 しかし、今では、西蒲原内の多くの排水機場が各地区の水を「新川」に排水し、「新川」に
 集まった水を新川河口排水機場で「日本海」に排水してる。
 このように新川河口排水機場と他の排水機場が連携して排水を行い、西蒲原内の農地や
 農業用施設を洪水から守るとともに、河川より低い地域に住んでいる人たちの財産を
 洪水から守る大切な役割りも果たしている。
・宝光院と横田切れ水位標(新潟市槇尾)
 宝光院は約250年前に庄屋中野氏が招致した禅宗寺院である。
 本堂の柱には1896年(明治29)7月22日夏に起きた信濃川の大洪水「横田切れ」で
 濁流により床上浸水したときの痕跡がくっきりと残っている。
 山門左側には、床上浸水したときの高さを示す水位標が立てられている。
親鸞聖人旧跡(川越波切御名号)
 約800年前、都を追われて越後に流された親鸞(1173〜1262)は、鳥屋野滞在中
 にたびたび信濃川をわたり平島方面で新しい仏教の普及を図ったと伝えられている。
 風波の激しいある日、舟のへさきに「南無阿弥陀仏」の名号を掲げたところ、
 たちまち水路が開けて渡ることができたという伝説が残っている。
・波切橋(新潟市平島)
 橋のたもとに道標が建つ。
 道標には「右内野・弥彦」「左新潟」、左側面に「白根」と刻まれている。
・西川排水機場と水門(新潟市平島)
 ・西川排水機場
  西川下流域は、おしなべて地盤が低く、1964年(昭和39)の新潟地震以後、
  急激な市街地化が進んだ。
  大雨が降ると自然に水が引きにくく、実際、西川への自然排水はまったく不可能で、
  すべてポンプによって強制排水している。
 ・水門
  1973年(昭和48)、信濃川との合流点に信濃川からの逆流防止を目的とした
  西川水門を設置。
 ・大雨被害
  昭和53年6月26日集中豪雨では西川の水位が上昇、新潟市坂井輪地域でも多くの
  家屋が浸水被害を受けた。
  平成10年8月4日の集中豪雨では、大堀幹線が水没し付近の多くの家屋が
  浸水被害を受けた。
  近くの大堀幹線道路に「平成10年8月4日水害水位冠水位置地面から0.73m」 
  と書かれた水位標が設置されている。
西川水門の見学を最後に約100キロの及ぶ現地探訪「西川の始まり“信濃川大河津
水問から平島西川水門まで”」は終わった。
気にも止めなかった丘が、大河津分水大工事の掘削土砂が捨てられた場所で「客土の丘」
と呼ばれているとは知らなかった。
地域探訪で知る温故知新の世界。
坂井輪地域探訪講座は、楽しく面白い。

西川探訪 (イラストを模写)