新津石油の里さわやか遊歩道を歩く

kanazu362007-11-22

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わが家は・・・
11月16日、石油の里で知られる新津石油の里「さわやか遊歩道」を歩いた。
遊歩道は、石油の里―堀出神社―桜林句碑―
さくら広場(金津城跡)−植物園―白玉の滝の1.2kmコース。
・石油の里
 石油展示室には石油の誕生から現在、そして未来まで、あらゆる石油に関する資料が
 そろっている。
 建物中央には上総掘り(かずさぼり)油井の3分の2の模型が展示されている。
・堀出神社
 朱色の鳥居をくぐり石段を登る。
 石段左右の紅葉したモミジが、参拝者を歓迎する。
 案内板には、堀出神社は今から約800年前、金津家が金津城構築の際に地中から
 二神体を掘り出し、祠を建てて堀出大神と奉称し城の守護神としたのが始まり。
 その後祠は荒廃してしまいますが、天正元年(1573)3月、第15代新津丹波
 勝資公が金津から新津へ築城の折に遷座し、領内の総守護神となった。
 (現在新津市本町に建つ堀出神社)
 金津堀出神社のその後の遍歴について詳細は不明。
 明治35年ころの金津村には当時堀出神社を含め12社が存在しており、審議の結果、
 佐久那殿神社を除いた11社を堀出神社に合併することが決定、新殿を造築した。
 平成10年に拝殿が焼失してしまい、昔の荘厳な姿を見ることはできなくなりましたが、
 住民の力で現在の立派な拝殿が再建された。
・桜林句碑
 堀出神社を過ぎると桜並木が続く。
 遊歩道の両側に句碑が約10基建つ。
 その中に、金津村の繁栄を詠んだ句がある。
 ”仰ぎ見よ 峰から峰へと宝の櫓 日に日に汲み出す2千石 村は栄えて富をなす
 誰がつけたか 金津村”
・さくら広場(金津城跡)
 分岐路に標柱が立つ、左さくら広場・右白玉の滝。
 さくら広場の中に石碑がある。
 石碑には「金津城跡」と。
 案内板に「金津城と堀出神社」の由来が書かれている。
 源義光(森羅三郎)の子、平賀盛義が蒲原郡の護摩堂山に築城し平賀氏を称した。
 年月日、原因は記録に見えないが、護摩堂城落城によって山を下り、1200年頃
 この地に金津城を構築したのは、平賀盛義の孫、資義で金津小二郎資義を名乗った。 
 資義の三人の子は、長男が死亡・二男資直が金津城のあとを継ぎ金津蔵人左衛門尉
 資直と称した。
 三男信資は、1226年頃、山谷に分家し新津氏の始祖となり新津城に拠って、
 新津越前守三郎信資称した。
 金津氏は何時どうなったか不明。
 この後、上杉謙信時代に家臣金津新衛尉義舊の名が見えるまで金津氏は文献に
 見当たらない。 
・植物園
 遊歩道を下ると車道に出た。
 県道から白玉の滝に通ずる道路だ。
 車道の両側に植物園がある。
 季節は秋、花などは咲いていない。
 植物園には花の名前を示す看板が立っている。
 アヤメ・ミズバショウカキツバタハナショウブ・三寸アヤメ・ルイシアナアヤメ
 等など。
 花の季節には、植物園も花に彩られ沢山の人が見物に訪れるのだろう。
・白玉の滝
 植物園から100mのところに白玉の滝がある。
 駐車場も東屋もある。
 滝のそばに「佐久那殿神社」と書かれた標柱と「白玉の滝」の案内板が立つ。
 市内南端の丘陵地にあるこの滝は、都市部に近く自然豊かな景勝地として四季を
 通じて人びとに 親しまれ、特に夏は涼味満点で、昔から避暑・納涼の地としても
 利用されてきました。
 順徳天皇の頃(1210―1221)から知られていたとされ、かつては山伏の修行の地で
 あったといわれています。
 二つの滝があり、上流には落差約15メートルの雄滝、下流には落差約7メートルの
 雌滝があります。
 なお、白玉の滝という名称は通称で、いつごろからそう呼ばれるようになったのかは
 不明です。
 標柱に雄滝まで100mと書かれてあり、滝に沿って細い道を登った。
 雄滝に到着。
 木々の間から水が勢いよく流れ落ちる。
 滝の近くに祠が祀られている。
 山伏が修行した白玉の滝。
 寒中に白装束で、この滝で修行する姿が新聞やテレビで報道される。
片道約1時間のさわやか遊歩道散策は終了した。
植物園を左に進むと菩提樹山の山頂だ。

山伏修行の白玉の滝 (イラストを模写)