移り変わる風景みなとまち新潟

kanazu362008-01-12

1月9日新潟東北電力グリーンプラザで
鍋谷拍洋画伯の「移り変わる風景みなとまち新潟」
原画展を見、マップを片手に「みなとにいがた通り」を歩いた。
・鍋谷拍洋画集よりみなちまち新潟原画展
 会場の新潟東北電力グリーンプラザは、マップでは上大川通り16番。
 鍋谷拍洋画伯(大正7年、新潟市古町生まれ)は、昭和7年(1932)から
 昭和10年(1935)にかけ、約200点にのぼるみなとまち新潟をスケッチした。
 会場には、スケッチの中から特に思い出がある風景50点が展示されている。
 絵の脇には、スケッチした場所の現在の写真が添えてある。
 皆川袈裟雄(高田市生まれ・カワ・ミチ・マチ研究所所長)さんがスケッチの解説をし、
 平成19年3月から毎週火曜日の新潟日報夕刊に掲載された。
 50枚の絵は、5コーナーに分けられ飾られている。
 ・港とその周辺
 ・浜辺(窪田町から寄居浜まで)
 ・掘割・新潟カトリック教会
 ・信濃川左岸を訪れる・沼垂、玄的、栗の木川、近郊外
 ・旧新潟駅の裏・青山稲荷神社・山の下のチューリップ畑・団九郎の池・万代橋・
  弁天橋などなど。
  忠蔵町の大仏さまが印象に。
  解説には「青銅の大仏さまは、太平洋戦争の末期(昭和18年・1943)11月
  心ならずも出征(?)し、再び帰ることがかなわなかった・・・」と。
 年配の人は絵を観ながら「今は、描かれている風景とまったく違う風景に
 変わってしまった。昔のことが懐かしく思い出される」と。
 新潟生まれでない私には懐かしい風景の記憶はない。
・みなとにいがた通り
 マップには、「東中通り」「西堀通り」「古町通り」「版画通り」「西新道通り」「東新道堀通り」
 「鍋茶屋通り」「東堀通り」「本町通り」「上大川前通り」「一番堀通り」「鍛冶小路」
 「新津屋小路」「柾谷小路」「新堀通り」「坂内小路」「御祭堀」「湊町通り」が
 表記されている。
 通りの起点は、白山神社側と信濃川側の2か所。
 起点から10mごとに番号が記載さられている。
 西堀通り12番は白山神社側から120m。
 柾谷小路12番は信濃川側から120m。
 白山神社古町口鳥居前から古町通りを歩いた。
 福屋書店前が古町通り1番。
・版画通り
 白山神社の鳥居を抜け、古町通りを歩いた。
 古町通り70番・新津屋小路11番の宝飾時計片桐の前に余鉢を持った良寛和尚の
 托鉢姿の像がある。
 版画通りに出た。
 通りは、1番から15番場まであるから150mか。
 彫金作家深見愛子作のガス燈(昭和61年8月7日竣工)10本が並ぶ。
 ガス燈の両面に良寛さんを描いた版画が掲げられている。
 一本目は、良寛さんとバスケット・笑う角には福来る
 五本目は、良寛さんと手まり遊び・良寛さんと魚つり
 九本目は、良寛さんと一緒に遊んで!・たこあがれ
 などなど。
 十本目は、新古町版画通りの看板が掲げられている。
 通りは、一方通行で道半分が歩道。
 小学生から大人の版画が18点も。
・勝楽寺の「イギリス領事館跡」と「こしの千涯良寛手まりの碑」
 マップでは西堀通り128番が勝楽寺。
 山門入り口の標柱に本堂前に「こしの千涯良寛手まりの碑」があると書かれている。
 山門を入ると右側に「イギリス領事館跡」の標柱がある。
 ・イギリス領事館跡
  「明治2年1月から明治12年8月。
  明治元年11月19日(1868年1月1日)新潟は、五港の一つとして世界に
  開かれた。明治2年1月、勝楽寺にイギリス領事館が置かれた。・・・
  明治12年8月に閉鎖されるまで4人の領事が執務した」。
 ・こしの千涯良寛手まりの碑
  本堂右側に碑が建立されている。
  「こしの千涯は、明治28年西蒲原郡潟東村に生る。初め美高耕堂と号したが
  昭和10年相馬御風により雅号を受けそれ以後良寛を一筋に描きつづけて無欲清浄の
  画境をひらく昭和33年2月没す64歳 本名斉藤作一」
  脇には、「こしの千涯によせる 津田青楓」の石碑が建立されている。
  「雪ふかい越後の一隅に名もなく言あげもせず清貧に堪えながら良寛をひとすじに
  生きぬいたこの人の生涯そして画業を私は得がたく尊いものに思う」。
移り変わるみなとまち新潟の風景を絵で楽しみ、マップを片手にみなとにいがたの通りを
歩くも楽し。

版画通りを歩く (イラストを模写)