講演「佐渡金銀山を世界遺産に」

kanazu362008-02-20

佐渡の話題が新聞に。
佐渡の呼称は、「さどしま」か「さどがしま」か
佐渡の観光客は、1991年が121万人、2007年は
 約60万人と半減
旭伸航空がにいがた・佐渡便の撤退を検討
佐渡長谷寺で観音像を掃除していたら厨子(ずし)の下から仏像2体発見
・15羽のトキが今秋に予定される試験放鳥に向け野生復帰ステーションで訓練中
16日、新潟郷土史研究会主催の「佐渡世界遺産に」(新潟県推進室副参事小田由美子)
の講演を聴いた。
佐渡鉱山技術の変遷と鉱山開発
 佐渡島における金銀採掘の歴史は古代に遡り、「今昔物語」(11世紀末)の西三川
 砂金山・鶴子(つるし)銀山・新穂銀山・相川金銀山へと鉱山開発は続く。
 明治に入り佐渡鉱山は三菱合資会社に払い下げられ三菱金属が鉱山開発に乗り出し
 近代化が進んだ。
 資源枯渇により1989年(平成元年)採掘を中止、鉱山の開発に幕が下ろされた。
 ・西三川砂金山
  虎丸山から土砂を採取、江道に水を流し砂金を採取した
 ・鶴子銀山と新穂銀山
  16世紀ころ鶴子銀山や新穂銀山で露頭掘りが始まった
 ・相川金銀山
  相川金銀山が発見され、江戸時代の初め徳川家康が石見や生野や甲斐などから山師
  (鉱山経営者)を集めて最先端の測量(振矩:ふりかね)・採掘(坑道掘り)・精錬
  (灰吹法:・はいふきほう・焼金法:やきがねほう)技術で開発、坑道掘りによる
  鉱山として、世界有数の金産出量を誇った。
 ・近代工法による採掘
  明治に入り三菱鉱業が佐渡金銀開発に乗り出し近代的工法で金銀を採掘した。
 ・鉱山開発遺跡
  17世紀前半の最盛期には、相川の人口は5万人に達すたといわれる。
 ・17世紀初頭の人々が暮らした大規模な上相川鉱山町並み跡
 ・道遊の割戸
 ・時代が下がるにつれて海岸地帯に向かって拡大した大工町から京町に至る町並み
 ・大滝間歩  ・吹上海岸石切場
 ・金銀などの運搬にために整備された相川から小木までの相川往還
 ・小木には宿場や1里塚 ・大立堅坑 ・北沢浮遊選鉱場
 などなど
文化遺産
 富を得た山師たちが、鉱山の繁栄を願って寺院に壮大な伽藍や能舞台などを寄進した。
 能楽や神事芸能など多彩な芸能も多く伝承された。
講師からは、
佐渡は古代から近代までの金銀の採掘状況が一目で分かる。
島内には鉱山開発の多くの遺跡が遺されている。
島民いや県民の力で「佐渡世界遺産に」と。
講演を聴き、多くの鉱山遺跡が佐渡に遺されていることを知り、改めて佐渡
貴重な宝の島であることを知らされた。
県や佐度市では3月16日、新潟グランドホテル(新潟市)で
世界遺産をめざして・甲斐、石見から見た佐渡金銀山」の講演を予定している。

講演「佐渡を・・・」(イラストを模写)