福島潟と川(福島潟放水路)

kanazu362008-05-01

4月27日新潟市主催の動く市政教室「水の流れと福島潟」に
参加した。
市のアイデアか、パンフレットに問題が出ていた。
問1「新潟県内で福島潟は何番目に大きさの潟でしょうか」
問2「福島潟には何本の川が流れ込んでいるでしょうか」
参加者は29名、9時20分新潟駅南口を出発した。
福島潟では副館長から福島潟放水路管理所では職員から話を聞いた。
・福島潟(パンフなどから)
 野鳥220種以上・植物450種以上が確認されている自然の宝庫。
 「日本の自然100選」「日本の音風景100選」「全国水の郷100選」「日本の街路樹
 100選」「にいがた景勝100選」「遊歩百選」などに選ばれている。 
 ・松ヶ崎の掘り割りと福島潟
  新発田藩は、紫雲寺潟干拓や福島潟開発を目論み、1730年(享保15)に幕府の
  監督の下、阿賀野川を松ヶ崎で掘り割り、日本海に直接流す工事を行った。
  しかし、翌年の春の雪解け水などで、堀割は本流となってしまつた。
  この結果、阿賀野川の水位は4尺(約1.2メートル)も下がり、島見前潟は美田と
  なり、福島潟周辺にも広大な干上り地ができたといわれる。
  以後、阿賀野川右岸の開発は急速に進展し、葛塚をはじめ多くの村が成立した。
 ・福島潟の干拓
  阿賀野川の松ヶ崎開削で、広大な開発可能な土地ができると、幕府は1754年
  (宝暦4年)福島潟周辺の33カ村を幕府領とした。
  潟の開発を頸城郡鉢崎村(現柏崎市)の山本丈右衛門に許可しました。
  丈右衛門は潟に流れ込む水量を少なくするため加治川や新発田川の改修、新太田川
  掘削などを行い、新鼻や太田地区など89町歩(約89ヘクタール)を開発し、
  1770年(明和7)病死した。
  1789年(寛政元年)には、水原町市島徳次郎をはじめとする13人衆に受け
  継がれた。
  開発する場所を土手で囲み、中にマコモを植えて土砂を沈殿させ、水を抜いて水田に
  する方法が行われた。
  また、潟に流入する河川の上流から土を流し、潟の底を高くする方法もとられた。
  さらに、潟の全面開発を目指し、浜茄子新道(県道豊栄・天王線)、天王新道、山倉新道
  (主要地方道新潟・五泉・間瀬線)の堤防を築き、潟を分割しましたが、洪水で決壊し、
  不成功に終りました。
  13人衆の開発面積は潟の周囲全面におよび452町歩でした。
  1824年(文政7)には、潟周辺は新発田藩の預地となった。
  藩では、阿賀野川から新井郷川への逆水止めの工事を実施したり、土流しの手段を
  積極的に行った。
  また、各新道の堤の強化をするとともに、ジョレンで潟中の泥を掻き上げて田に入れ、
  田畑の安定を図り、452町歩の耕地を開発した。
  1855年(安政新発田藩は潟水面540町歩を、葛塚の斎藤七郎治や内沼の
  佐藤名平など15人に譲渡した。
  このことは、近世土木技術の限界を認識し、潟の全面干拓が放棄されたことを意味する。
  その後、小規模な開発が行われますが、1911年(明治44)に、潟は天王市島家の
  所有となった。
  1956年(昭和31)潟は市島家から買収され、1961年(昭和36)の新井郷川
  排水機場の完成を足がかりに、昭和43年から国営干拓が始められた。
  北側を遊水池として残し、169ヘクタールの農地を生み出して、1975年(昭和50)
  9月国営による干拓工事が終了しほぼ現在の形となる。
  国営干拓事業では当初福島潟を全て干拓する予定だったが、工事が始まってから
  二度の水害に襲われた際に福島潟の排水機能が見直されたために半分程度残したと
  いわれる。
  阿賀野川の松ヶ崎開削以来、246年後のこと。
・川(福島潟放水路)
 ・福島潟放水路(パンフなどから)
  福島潟から新潟東港まで続く放水路。
  新潟県新潟市北区を流れ日本海へ注ぐ、全長は6.2km。
  福島潟は13の河川が流入するが、放水の役目を果たす河川が新井郷川のみで
  あったため、水捌けが特に悪かった。
  そのため幾度と無く福島潟周辺が水害に襲われることがあった。
  特に1966年・1967年と2年続けて発生した羽越水害の被害が非常に大きく、
  新井郷川以外の放水路の必要性が出てきた。
  このため福島潟放水路の建設計画が浮上し、1969年より建設が始まった。
  しかし建設が行われていた最中であった1998年8月4日に水害が発生し、周辺が
  被害を被ったことから福島潟放水路の必要性が更に高まった。
  そのため水害復興費用が福島潟放水路の建設に当てられ、予定していた2005年度
  よりも早い2003年3月13日に開通した。
 ・豊栄潮止堰
  ゴム引布製起伏堰で、河川水を注入して堰を膨張させる。
  海水が放水路内に遡上するのを防止し洪水時には段階的に堰を下げて、放水路の水を
  放流する。
 ・川の十字路浦ノ入水門
  新発田川を横切るように福島潟放水路が掘られ、浦ノ入水門で新発田川と福島潟
  放水路が交差するため川の十字路と呼ばれる。
  新発田川の水位がが+0.7センチ、福島潟の水位が−0.7センチと1.4mの
  高低差がある。
  浦ノ入水門は、常時ゲートの開度調節操作で放水路の水位を維持する。
  洪水時は全閉して福島潟の出水がこの水門より下流部へ流下するのを防止する。
 ・椋(むくろ)堰
  ゴム引布製起伏堰で、空気を注入して堰を膨張させる。
  洪水時には倒伏させて福島潟の流水を放水路を通じて分流させる。
  椋堰を眺めると、福島潟側の水位が−0.7センチで浦ノ入水門側の水位が+0.7
  センチと堰を挟み1.4メートルの高低があるのがはっきりと見られる。
動く市政教室「水の流れと福島潟」の施設めぐりは終了した。
パンフレットには出ていた問題の回答は、
問1「新潟県内で福島潟は何番目に大きさの潟でしょうか」 :答え1番大きい
問2「福島潟には何本の川が流れ込んでいるでしょうか」 :答え13河川
動く市政教室に参加したことで、福島潟の開発の歴史と農民の水との闘いの苦労を
知ることができた。
当初、国営干拓事業では福島潟を全て干拓する予定だった。
天の恵みか「二度の水害」が福島潟の排水機能を見直す結果となり工事は中止された。
工事の中止により残された福島潟は、野鳥220種以上・植物450種以上が確認される
自然の宝庫として今に甦る。

椋堰では水位の差がはっきりと (イラストを模写)