旧信濃川本流を歩く

kanazu362008-05-07

坂井輪の郷土を語る会(会長近藤正雄・22名)の
4月25日の発表課題は、「旧黒埼町善久と山田地区は
新旧信濃川に挟まれた川中島」。
昔、信濃川は善久付近で本流と支流に別れて流れ寺地で
合流して日本海に注いでいた。
信濃川の本流と支流に挟まれた善久と山田地区は川中島で「山田島」と呼ばれ、
戦前は、山田飛行場があり陸軍航空隊の特攻部隊米沢隊30名が駐屯していた。
「百聞一見に奴かず」ということわざがある。
信濃川本流を知るため探訪することを決めた。
5月2日、会員16名(男13・女3)が、旧信濃川の本流だった立仏から焼鮒までの
5.7キロの堤防跡を歩いた。
・善久と山田地区は新旧信濃川に挟まれた川中島だった
 昔、善久と山田地区は川中島で「山田島」と呼ばれていた。
 信濃川は善久河口で二股に別れ、東側を流れていた川(現在の信濃川)を、江戸時代
 から島屋野川と呼んだ。
 島の西を流れる川を大川と呼ぶ旧信濃川の本流で、柳作・立仏・寺地を経て寺地河口で
 現在の信濃川に合流していた。
 東西を二筋の川に囲まれていた山田島は、黒埼の北北東に位置し、南北に細長く延び、
 その面積は約150町歩余もある大きな島だった。
 旧信濃川の本流は、天保8年から万延元年の天野付近の改修工事の影響で水量が
 不足し、明治29年の信濃川改修工事によって新堤防が築かれ河川はふさがれ
 廃川となり埋め立てられた。
 新堤防は今の国道8号線である。
 埋め立てられた河川敷は、田上村の田巻家によって開墾がなされ大正中期には80余
 町歩もの大農地に変貌した。
 戦時中堤防の外側に山田飛行場が造られ、陸軍航空隊の特攻部隊米沢隊30名が駐屯
 していた。
・旧信濃川本流を歩く
 10:00済生会新潟第二病院出発
 寺地から寺地の交差点までの側道は旧信濃川の土手。
 途中の民家の庭に旧信濃川の面影が残る水蔵がまだ残っている。
 寺地ふれあい公園で休憩。
 公園を過ぎると現在の信濃川の土手に出る。
 堤防沿いを歩き、平成大橋の下をくぐり国土交通省北陸整備局前を通過。
 国道8号線を横断。
 側道に入るとまた水蔵が見えた。
 11:05山田神社に到着。
 境内には山田神社合祀記念塔の石碑があり、大きな欅の木が2本あり付近はけやき公園 
 と呼ばれている。
 3棟めの水蔵を見つけた。
 山田小学校前を通過、校門脇に親鸞聖人の越後七不思議の一つ「焼鮒」の石碑が建つ。
 石碑には「明日をひらく山田っ子」と書かれている。
 またも水蔵を見つける。
 11:50田代家の焼鮒旧跡を見学、榎の切り口に親鸞聖人の姿と鮒の形がくっきりと
 見える。
 12:20八幡宮到着参拝。
 12:30ゴールの新潟ふるさと村到着、解散。
・今年の研究発表課題は、
 5月沼垂の歴史 ・6月大形の歴史 ・7月松ヶ崎の歴史 ・10月濁川の歴史
 11月南浜の歴史 ・1月新潟の歴史 2月関屋の歴史 
 10月には酒屋地内を探訪する。
 会員がグループに分かれ、課題を調べ発表する 
 私は7月の「松ヶ崎の歴史」の発表の担当者になった。 
温故知新ということわざがある。
今年もまた新しい知識を知ることができる。
坂井輪の郷土を語る会は楽しい。

信濃川本流を歩く (イラストを模写)