語り部から新潟水俣病の話を聞く

kanazu362008-05-14

5月4日、阿賀野市の安田公民館で、新潟水俣病が発生した
阿賀野川流域の暮らしぶりを記録した映画「阿賀に生きる」などの
作品を残した映画監督佐藤真さん(昨年9月49歳で死去)を
偲ぶ集いが開催された。
5月8日、新潟水俣病第3次訴訟が提訴されてから1年以上を経て初弁論が開始された。
4月27日、新潟市主催の動く市政教室で、環境と人間のふれあい館を訪れ
新潟水俣病の被害者の語り部権瓶晴雄(77)さんから「新潟水俣病」の話を聞いた。
新潟水俣病被害者の語り部権瓶晴雄
 権瓶晴雄さんは1930年(昭和5)、北蒲原郡安田町小松に生まれ、幼少の頃から
 阿賀野川の川魚(コイ・フナ・ニゴイ・ウグイなど)を食べ生活ていた。
 新潟水俣病第2次訴訟原告として裁判に加わる。
 昔の田舎のたん白源といえば、川魚・山ウサギ・ニワトリなどだった。
 海から遠く海魚などは食べたことがなかった。
 昔、阿賀野川に大量の魚が浮き、村人総出で浮いた魚を捕って食べた記憶がある。
 あれは水銀中毒の影響で魚が浮いたのだと思う。
 新潟水俣病被害者の闘いはまだまだ続く。
 私も語り部としてこれからも新潟水俣病の経験と教訓を後世の人に語り継ぐ。
新潟水俣病(パンプから)
 ・1936年(昭和11)昭和電工鹿瀬工場でアセトアルデヒドの製造開始
 ・1965年(昭和40)阿賀野川の近くに住んでいる人に「水俣病」の発生がわかる。
 ・1967年(昭和42)汚染原因がはっきりしないことから、新潟水俣病3家族が
  昭和電工を相手どり、新潟地方裁判所に訴えをおこす
 ・1968年(昭和43)政府が「新潟水俣病昭和電工鹿瀬工場の排水が基盤と
  なっている」ことを正式に発表
 ・1971年(昭和46)新潟地方裁判所において、新潟水俣病第1次訴訟の判決が
  くだされ、住民が勝った 
 ・1978年(昭和53)「阿賀野川の水銀汚染は一般河川なみ」であると安全宣言が
  なされた
 ・1982年(昭和57)新潟水俣病第2次訴訟が始まる
 ・1996年(平成8)新潟水俣病第2次訴訟は昭和電工と和解が成立、国への訴えが
  とりさげて終結した
 ・2001年(平成13)8月1日、旧豊栄市福島潟に「環境と人間のふれあい館」が開館した
・環境と人間のふれあい館
 環境と人間のふれあい館は、1995年(平成7)12月の新潟水俣病被害者の会・
 共闘会議と昭和電工との解決協定締結を契機に建設された。
 施設では、水俣病のような悲惨な公害を繰り返してはならないという決意のもとに、
 新潟水俣病の経験と教訓を後世に伝えるとともに、水の視点から環境を大切にする
 意識を育み、公害の根絶と環境保全の重要性を認識してほしいと建設された。
 2001年(平成13)8月1日の開館以来、新潟水俣病被害者の権瓶晴雄さんが、
 語り部として新潟水俣病の経験と教訓を後世の人に伝えている。
・日本四大公害(インターネットから)
 ・水俣病(熊本水俣
  ・発生地:熊本県水俣市不知火海沿岸地域
  ・原因:メチル水銀化合物
  ・発生した年:1950年代前半
  ・問題化した年:1969年
 ・第2水俣病新潟水俣病
  ・発生地:新潟県阿賀野川流域
  ・原因:メチル水銀化合物
  ・発生した年:1960年代中頃
  ・問題化した年:1967年
 ・イタイイタイ病
  ・発生地:富山県神通川流域
  ・原因:カドミウム
  ・発生した年:1910年頃
  ・問題化した年:1968年
 ・四日市ぜんそく
  ・発生地:三重県四日市石油化学コンビナート
  ・原因:コンビナートの排ガス
  ・発生した年:1960年頃
  ・問題化した年:1967年
中国製餃子中毒事件やBSEアメリカ産牛肉輸入問題など食の安全性が叫ばれている。
動く市政教室で新潟水俣病の悲惨さと食の安全の重要性を再認識した。

新潟水俣病語り部 (イラストを模写)