城下町村上を歩き臥牛山城に登る

kanazu362008-05-27

娘夫婦が村上に転勤したことから村上の町に興味を持ち
5月24日、城下町村上を歩き臥牛山城に登った。
戦国末期豊臣秀吉は、越後一国を領した上杉家を会津
転封させた後、堀秀治を越後に入れ、その与力として、
溝口秀勝新発田に、村上義明(頼勝とも)を当時本庄と呼ばれていたこの地に9万石で
配した。
地名村上としたのはこの時である。
にいがたの一冊に、シリーズ藩物語「村上藩」(大場喜代司著)が紹介されていた。
第一章の「村上藩の発足」から始まり9家の藩主が登場する。
1:村上義明(外様・9万石)、2:堀直奇(外様10万石)、3:本多忠義(普代・10万石)、
4:松平直矩(親藩・15万石)、5:榊原政倫(親藩・15万石)、6:本多忠孝(普代・
15万石)、7:松平輝貞(普代・7万2千石)、8:間部詮房親藩・5万石)、
9:内藤弌信(普代・5万石)。
内藤家は、9代160年間続き藩主内藤信美の時代に明治を迎える。
作者は、9家の藩主の中でも堀直奇(なおより)・松平直矩(なおのり)・内藤弌信
(かずのぶ)に力を注いでいる。
・臥牛(がぎゅう)山と村上城舞鶴城)
 村上城跡は標高135mの臥牛山を中心に広がり、築城は16世紀初頭と推定される。
 案内板には、この城は、室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地でしたが、
 慶長3年(1598)国替えでこの地に入った村上義明(頼勝とも)が大改造を加え、
 その後、堀直奇・松平直矩によって本格的に築城され、三層の天守がその偉容を誇って
 いました・・・・
 登山道口には「村上城跡」と書かれた石碑が建つ。
 整備されてされた石段は途中まででその先は土の道が頂上まで続く。
 約20分で登れる。
 登山道入り口で思わぬ珍客の歓迎を受けた。
 登山道石段の上に長さが1m弱の青大将が昼寝をしたい。
 昔から蛇は「幸運や金運をもたらす生き物」と言われている。
 蛇は私の干支、何か良いことがあるかも・・・
 恐る恐るデジカメで撮った。
 四ッ門跡を過ぎると石垣が見える。
 石垣は本丸まで続く(石垣は修復工事中)。
 御鐘門跡を過ぎ冠木門跡を過ぎると本丸跡だ。
 広場に秋葉神社と書かれた石碑がある。
 石の鳥居が2本立っているが社はない。
 広場の南側の一段高くなったところに「天守台跡」の標柱が立つ。
 脇に「舞鶴城跡」と書かれた石碑がある。
 本丸跡からの眺望はすばらしい。
 眼下に村上の町並みと遠く日本海が眺められる。
 北側には三面川と下渡山(237m)などの山並みが・・・
羽黒神社
 羽黒神社は、出羽庄内の羽黒三社権現をまつったもので、はじめ臥牛山にあり、
 寛永10年(1633年)現在地に移された。
 境内の神明宮神殿は元禄3年(1690年)に、当時の村上藩主榊原式部大輔勝乗侯に
 よって建立されたもの。
 桃山風の建築様式で新潟県文化財に指定されている。
 鳥居をくぐり石段を登り本殿を参拝した。
 拝殿右側に「羽黒山八景」の大額が掲げられているが文字が風化しており読めない。
 拝殿左側に神明宮が祀られ、石段の途中には稲荷神社も祀られている。
・光徳寺
 光徳寺は、村上藩主内藤侯歴代の菩提寺で初代内藤弌信侯から9代内藤信美侯が
 祀れている。
 山門入り口の看板に、享保5年徳川家康公と同じ松平広忠公を父に三河内藤清長
 女を母にもつ、初代弌信侯及内藤侯歴代の菩提寺で初代からの大名、御家族のお墓が
 2ヶ所に約60墓あります。
 又奥に堀城主、榊原城主のお墓もございます。
 と書かれてる。
 墓地に入ると石段があり入り口の門に「内藤侯墓所」の看板が掲げられている。
 広場に初代から9代までの墓が並ぶ。
 墓地の一画に家臣家族の墓もある。
歴史ある町村上を歩いた。
城主が九家も代わった町を「越後村上は左遷地の印象が強い藩である」という言葉が
印象的だ。

あれ登山道に蛇が (イラストを模写)