乾電池と二股ソケット

kanazu362008-07-26

7月20日の新聞に、東京工業大資源化学研究所の
池田富樹教授と山田宗紀研究員らが「光を当てるとプラスチック
のベルトが伸縮して車輪を回す世界初のモーター」を開発したと。
新聞連載小説上山明博著「夢みる力」“評伝「乾電池王」
屋井先蔵”が終わった。
6月28日の最終回「先蔵の会葬者の列の後方に、独りの男の姿があった。
屋井先蔵の衣鉢を継ぐことになる、松下幸之助である・・・」と。
・乾電池王屋井先蔵
 新聞連載小説上山明博著「夢みる力」“評伝「乾電池王」屋井先蔵”を毎週楽しみに
 読み、切り抜き保存した。
 屋井先蔵越後長岡藩出身(現在の新潟県長岡市
 1863年(文久3)―1927年(昭和2)乾電池の発明者
 「夢みる力」“評伝「乾電池王」の見出しを拾った。
 ・藩士の長子:米百俵の地で呱々(ここ)の声
 ・将来の選択:医師、さもなくば技師に ・年季奉公:発明家への“歯車”始動
 ・上京へ:“田舎学問“脱皮目指し ・永久機関目指し:三国峠越え石黒家寄宿
 ・猛勉強:工部大学受験に備え ・不正確な時計:5分の遅刻で受験失敗
 ・叔父の工場へ:目指すは市井の発明家 ・発明の芽:電気時計作り特許1号
 ・長屋所帯:注文殺到の夢かなわず ・電池の創作:使い勝手悪く改良に汗
 ・開発への壁:教えを請うため帝大へ ・失策博士:田中館教授と顔合わせ
 ・ついに完成:妻の意見聞いて「命名」 ・特許出願:内助の功で大金を工面
 ・軍から注文:酷寒の地でも氷結せず ・生涯最高の年:立志伝中の大発明家に
 ・関東大震災:崩壊の社屋にぼうぜん ・震災から復興:新天地に大工場群建設
 ・不帰の客:新社屋に永遠の夢残し 
 ・衣鉢を継承:「中興の祖」産業けん引
 物語のはじまりは、
 明治17年(1884)春、越後の峰々にはなお昨年の根雪が溶け残っていた。
 脚半に草鞋(わらじ)のいでたちで路傍に積もった堅雪を踏みしめ、ひとり三国峠
 登る青年の姿があった。
 歳は20、名は屋井先蔵という・・・。
 戒名は“興国院忠誉慈弁先道居士”
 「乾電池の発明という先人未踏の道を拓(ひら)き、発明によって国を興し国の誉れと
 なることを希求した乾電池界の大先達・屋井先蔵に、いかにもふさわしい戒名だ」
 松下幸之助はそう心の中でつぶやき、静かに合掌した。
 で物語は終わる。
松下電器産業(現パナソニック)創業者松下幸之助
 1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に
 小地主松下政楠・とく枝の三男として生まれた。
 家が松の大樹の下にあったところから松下の姓がつけられたといわれる。
 1899年頃、父親が米相場で失敗して財産を失ったため、一家は和歌山市本町1丁目で
 下駄商を始めた。
 しかし、父親は商売に失敗し店を畳んだため、小学校を4年で中退しわずか9歳で
 宮田火鉢店に丁稚奉公に出た。
 その後、五代自転車での丁稚を経て、16歳で大阪電燈(現:関西電力)に入社し、
 7年間勤務する。
 後に同社を退社し、当時生活していた大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区
 玉津2丁目)にて、妻むめのとその弟である井植歳男(後に三洋電機を設立、1969年没)
 の3人で二股ソケットの開発を開始した。
 1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)へ移転し、
 「松下電気器具製作所」(のちの:松下電器産業・現:パナソニック)を個人創業する。
 アタッチメントプラグ、電池式自転車用ランプなどを開発し、ヒット商品を数多く生み出した。
 「夢みる力」では、松下幸之助は、大正7年3月、大阪市北区西野田大開町の借家に
 「松下電気器具製作所」の看板を掲げ、電気器具の製造販売を開始する。
 そして大正 12年、乾電池を用いた自転車用砲弾型ランプを東京の乾電池メーカー岡田
 乾電池と共同開発し、月産2000個のヒット商品となった・・・
 二股ソケットの開発は、電気ソケットの使用をめぐる夫婦喧嘩からヒントを得、2人が同時に
 使用できないかと改良を重ね開発したエピソードは有名。
 松下幸之助の出世物語は、「大阪立身(邦光史郎著)」「匠の時代4(内橋克人著)」
 などなど数多くの本がある。
立身伝「屋井先蔵」と「松下幸之助」を読んだ。
屋井先蔵が乾電池産業の「始祖」といわれるのに対し松下幸之助が「中興の祖」といわれる
ゆえんがわかった。
1885年屋井先蔵が日本最初の乾電池を発明した電池の世界。
その電池の世界も今では、ボタン電池太陽電池・充電式電池そして燃料電池の登場と
大きく様変わりしている。

猛勉強 (イラストを模写)