三条鍛冶道場で包丁研ぎ挑戦と三条の和釘

kanazu362008-08-12

9日新潟まつりの祭り行列に、来年のNHK大河ドラマ
天地人」の主人公直江兼続率いる武者軍団が
「与板衆」と書かれたのぼり旗を掲げ参加した。
新潟県の刃物の町といえば与板と三条が有名だ。
・与板打刃物の歴史(与板町資料から)
 起源は戦国時代、上杉謙信の四天王の一人与板城主直江大和守実綱(直江兼続
 祖父)が天正6年(1578年)に春日山より刀工兼光、兼辰の流れをくむ刀剣師を
 与板に連れてきたときから与板刃物がここの声をあげた。
 宝永3年(1706)より、大工道具「のみ」の製造に力を入れたのが今日の与板刃物の
 土台となった。
 戦前、与板には販売業者(卸商)がなく、三条の問屋さんに納入。
 与板の製品としてでなく三条製品として長い間全国に販売されていた。
 昭和61年3月12日「のみ」「かんな」「ちょうな」「まさかり」について、通産大臣
 (現経済産業大臣)より「越後与板打刃物」として伝統的工芸品の指定を受けました。
・三条鍛冶の歴史(参考 三条金物卸商組合「金物と草鞋」)
 寛永2年(1625)から3年間を代官所奉行として三条に在城した大谷清兵衛が河川の
 氾濫に苦しむ農民を救済するため、江戸から釘鍛冶職人を招き、農家の副業として
 和釘の製造法を指導・奨励したのが始まりとされています。
 当初は農家の副業として和釘が作られていましたが、慶安2年(1649)頃には
 若干の鍛冶専業が現れました。万治元年(1658)の「町御検地帖」によると上町
 (現本町1丁目)などのほか「鍛冶町」(現本町5・6丁目)の名が記録されていますので、
 既に鍛冶専業職人の集落があったことが確認できます。
 寛文元年(1661)会津方面から鋸(のこぎり)、鉈(なた)などの新しい製造法が伝わると、
 製品も釘から鎌、鋸、包丁へと広がり、次第に専業鍛冶が誕生するようになりました。
 この様に鍛冶専業者が増加し、鎌を初めとした刃物類が大量に製造されるに伴い、
 おのずと金物を取り扱う商人が出てくるようになり、やがて金物専門の商人が生まれ、
 近接の地域から次第に県外へと商圏を広げていきました。
三条市の「三条鍛冶道場」で包丁研ぎの体験教室があると聞き8月2日参加した。
体験教室の隣では「和釘指導員検定試験」が行われていた。
・包丁研ぎ 
 持参した包丁は両刃包丁。
 指導員から中砥石の使い方と仕上砥石の使い方の指導を受け仕上げた。
 包丁は3段階に分けて研ぐ。
 包丁の刃先を前方に向け中砥石の上に直角に置き右手人差し指と左手3本の指で
 押さえ、約20回くらい研ぐ。
 2段目と3段目は刃先を45度くらい斜めにして研ぐ。
 カエリといって包丁を裏返し今度は刃先を手前に向け親指て押さえ研ぐ。
 最後は仕上砥石で同じことを繰り返す。
 研ぎの確認は、人差し指を刃先にあてざらざらがなければ完了。
・和釘
 伊勢神宮の20年に一度の社殿建替えの時には和釘が使われる。
 1993年(平成5)の伊勢神宮社殿建替えの際には三条鍛冶職人が作る「和釘」
 6万8千本と金物3万1千組が納められた。
 2013年の伊勢神宮社殿建替え作業に使われる和釘は8月中に発送される。
 予定では来年以降、内宮や外宮に使う建築金物の納入も始まる。
 三条鍛冶の技を後世に伝えていこうと「伝統技術継承講座」が、7月8日三条鍛冶道場で
 始まり約20人の人が受講している。
 道場では6人の人が「和釘指導員検定試験」に挑戦していた。
 受験者の1人は、一時間で和釘10本を作りその出来ばえで合否が決まると。
・三条鍛冶職人が伊勢神宮式年遷宮」使用の和釘を作る
 道場で写真を撮りまくる人がいた。
 聞けばブログ「三条発掘」を掲載している刈屋栄二さん。
 私もブログを掲載しており取材に来たというと、検定会場で和釘の後継者指導に
 当たっていた三条鍛冶職人小林由夫(小由製作所・69)を紹介してくれた。
 鍛冶の仕事に就いて50年余、前回の遷宮で和釘作りを担当した職人の多くが亡くなった。
 「次はまだいいが、その先の建て替えの時ため今から若い人を育てないと・・・・」
 頭を手ぬぐいでしばり道場内を歩き和釘作りに挑戦する受講者を指導する姿が印象的だ。
夏休みで東京から三条に帰省中の小学生5年と2年生の孫を連れて包丁研ぎに挑戦する
家族と出会った。
刈屋栄二さんは、思い出の包丁研ぎの写真を近々ブログ「三条発掘」に掲載しますよと、
名刺を渡していた。

小学生が包丁研ぎに挑戦 (イラストを模写)