阿賀野川と転覆事故

kanazu362008-09-18

地方紙新潟日報「碑は語る」で、昔会津領だった旧三川村の
阿賀野川で起きた転覆事故の犠牲者を供養した石碑のことが
出ていた。
9月10日、石碑を見に旧三川村岩谷を訪ねた。
阿賀野川
 阿賀野川は国が指定した一級水系
 福島県内では「阿賀川」または「大川」、新潟県内については「阿賀野川」の呼称で
 呼ばれている。
 水系として全長210キロで日本第10位、流域面積7710キロ平方メートルは日本
 第8位。
 また、下流部の河川水流量は日本最大級の一級水系である。
・遭難事故の犠牲者を供養した「哀溺鑑戒之碑(あいできかんかいのひ)」
 国道49号線を新潟から会津若松に向かい旧三川村の五十島トンネルを抜けると、
 「道の駅・みかわ巨木の里」があり国道の左側駐車場脇に「哀溺鑑戒之碑」が建っている。
 転覆事故は、1847年(弘化4)12月16日、厳寒の旧津川町津川湊から新潟湊に
 向かっている時に起きた。
 津川湊から新潟湊までは約70キロ・7時間の舟旅。
 川舟が旧三川村吉津の難所といわれた貝喰付近で突風を受け、あっという間に転覆した。
 乗客60人近くが冷たい川に投げ出され、10人あまりが救助されが、44人が水死する
 という大惨事となった。
 乗客は、出稼ぎ先の会津から新潟の帰る職人や商人たちで、犠牲者のうち21人は、
 旧巻町五ケ浜の人たちだった。
 当時、五ケ浜地区の人たちは、大工や木挽や身欠きにしん販売などのため会津などへ
 現金収入を求めて出稼ぎに出ていた。
 当時旧三川村は会津領だったため石碑は、会津若松八代藩主・松平容敬(かたたか)が
 遭難事故の犠牲者を供養し後世への戒めとして建てさせた。
 石碑には三百字を超す碑文が刻まれているが私には読めない。
 「ああ人間として誰か父母のいないのを悲しまない者があろうか。誰が兄弟を亡くし、
 誰が夫婦の別れを悲しまない者があろうか・・・」と書かれている。
 石碑は、1967年(昭和42年)の8・28水害で流されたが、1969年発見され
 今の場所に再建された。
阿賀野川の転覆事故と松浜橋(新潟地域整備部のあゆみから抜粋)
 ・1939年(昭和14年)11月1日阿賀野川で松ヶ崎浜村の渡船が転覆して30人が
  死亡する。
 ・1942年(昭和17年)11月29日阿賀野川で松ヶ崎浜村の渡船が転覆して32人が
  死亡する。
 ・1943年(昭和18年)7月24日松浜橋が竣工する。
 ・1963年(昭和38年)揚川ダムが竣工する。
昔、仕事で豊実駅から阿賀野川を舟で下った記憶があり日記を開いた。
1976年(昭和51年)12月2日(木)晴れ、鹿瀬駅から豊実駅まで磐越西線に乗り、
帰路は豊実駅から小舟に乗り豊実発電所まで阿賀野川を舟で下ると書かれている。
阿賀野川も揚川ダムの竣工で大きく変貌し転覆事故の面影はなく「哀溺鑑戒之碑」だけが
往時を偲ばせる。
今日も転覆事故現場を阿賀野川ライン下りの舟が下る。
船頭が、名勝・奇石・奇岩・伝説などを語りながら白崎―石間―咲花温泉間約13.2キロを
約50分かけて・・・

道の駅から阿賀野川を眺める (イラストを模写)