松ヶ崎掘割と山の下閘(こう)門

kanazu362008-09-28

新潟地方気象台によると新潟県内は27日、
寒気が入り込み、山沿いで気温が10度を下回るなど
今秋一番の冷え込みとなり、苗場山湯沢町)や妙高山
妙高市)でこの秋初めての降雪が見られたと。
苗場山(2145m)の初雪は、昨年より1カ月ほどは早い。
9月19日、新潟市の動く市政教室「海面より低いまち」に参加した。
新潟市歴史博物館(みなとぴあ)では「松ヶ崎掘割」と「内野新川掘削」の
話を聞き、山の下閘門排水機場では、約2メートルの高低差がある信濃川と通船川を
閘門を使い材木を運ぶ船が行き来する様子を見学した。
・松ヶ崎掘割
 新発田藩が、享保15年(1730)に幕府に願い出て許可された。
 阿賀野川を松ヶ崎で掘割り日本海に直接流す工事は、8月23日に着工し同年10月
 14日に完成した。
 しかし、翌享保16年(1731)春の雪解け水などで堰が決壊し掘割が阿賀野川
 本流となった。
 堰の決壊で、阿賀野川の水位は4尺(約1.2m)も下がり、周辺は広大な干上がり地が
 できた。
 それまでの阿賀野川本流は通船川となった。
・内野新川掘削
 三潟(鎧潟・田潟・大潟)に悪水に悩まされた農民が元文2年(1737年)、
 西川と交差した放水路を掘削し、悪水を日本海へ放出する計画を幕府に請願した。 
 中野小屋村の庄屋、伊藤五郎左衛門らの尽力により、新川の河口を漁港にしないという
 条件で文化14年(1817年)に幕府の許可を得て、翌15年(1818年)2月に着工した。
 計画は、西川の川底に底樋(そこひ)と呼ばれる木製の筒を埋設し、沈埋トンネル
 造って西川と交差させ、内野村の金蔵坂砂丘を掘り割って五十嵐浜へ放出させるという
 難工事であった。
 工事はまず、西川をコの字型に迂回させ、露出させた川底を掘って底樋を埋設し、
 埋め戻すという手順で行われ、文政3年(1820年)1月に完成した。
 新川開通後は周辺の潟の多くが干上がり、17もの新田村が誕生した。
 みなとぴあには、掘削現場の模型があり底樋は村上藩と長岡藩がそれぞれ1本づつ
 埋設した。
 現在は、新川の上に西川の水路橋架り、川の上に川が流れる。
 小学校の教科書にも「新川と西川の立体交差」のことが載っている。
・山の下閘門排水機場
 閘門とは水位の高さが違う二つの川を、船や筏(いかだ)が行き来するためのもの。
 別名水の高さが違う場所で船を通すためのエレベータとも言われる。
 信濃川と通船川の高低差は約2mあり、通船川のほうが2mも低い。
 この高低差を閘門により調整する。
 ・信濃川を進んできた船は閘門前で停止する
 ・閘門を開け信濃川の水を閘門内に入れ信濃川と閘門内の水位が同じになったら船が
  閘門内に入り、入り終わったら信濃川側の閘門を閉める
 ・通船川側の閘門を開けれ通船川と閘門の水位が同じになったら船を進め、船が閘門を
  通過したら通船川の閘門を閉める
 運搬船が材木を引く筏(いかだ)が来た。
 閘門の開閉を手順と通りに操作、運搬船と筏は見事に高低差は約2mもある信濃川から
 閘門を通り通船川に出た。
 手順を逆にすれば、通船川から閘門を経て信濃川に船が進行できる。
 学校で習ったスエズ運河も同じ原理だと。
昔は、信濃川阿賀野川の両大河は新潟の河口付近で合流し日本海に注いでいた。
松ヶ崎掘割工事で両大河は離れ離れとなって日本海に注ぐ。
昔の阿賀野川本流が通船川となった。
通船川が信濃川阿賀野川の仲立ちを行う。
新潟市の動く市政教室で、昔の阿賀野川信濃川と仲立ちする通船川の関係を知った。

2mの高低差を船が進む (イラストを模写)