米山検校の里を歩く

kanazu362008-11-10

今年のプロ野球日本シリーズ西武:巨人戦は、
第7戦までもつれこむ熱戦を展開。
西武がリリーフ陣の好投で4勝3敗で巨人を破り
4年ぶり13度目の日本一に輝いた。
地方紙新潟日報10月19日の「碑は語る」は、米山検校の「御礼塔」。
米山検校の名を知ったのは、1974年のHNK大河ドラマ勝海舟」だった。
子母沢寛の小説「勝海舟全6巻」をドラマ化したもの。
改めて本棚にある小説を読み返し米山検校の書かれている部分を見た。
小吉(海舟の父)の本家は、深川油堀の男谷(おたに)家、小吉は勝家の養子で実の兄
彦四郎が本家を継いだ。
勝海舟は水戸家への用達金だけで70万両という男谷(米山)検校の末裔。
小吉は、御家人直参勝左衛門太郎惟寅(勝家を継ぐ・小吉・夢酔)で40俵の小普譜。
米山検校をインターネットで調べた。
米山検校=男谷(おたに)検校(1704―1771)
 ・柏崎市東長鳥(旧北条町杉平)生れ 
 ・江戸石坂検校、嶋補検校について鍼道を修得
 ・宝暦の飢きん時に長鳥郷の窮民に米を施与し急場を救う 
 ・水戸藩に70万両?貸す 
 ・盲人としての最高位の検校に昇進 
 ・盲人学校開設の歎願 
 ・旗本男谷氏の株を買い男谷検校と呼ばれた 
・米山検校の里を歩く(11月3日)
 ・米山検校之碑と咸臨丸
  旧北条町杉平の旧農協支所(現検校塾)前の広場に米山検校之碑が建ち近くに大きな
  咸臨丸の模型が飾られている。
  石碑には「米山検校(1704―1771、東長鳥杉平の山上家に生まれ幼くして光を
  失い・・・。
  努力と才能が水戸光圀公に認められ、その後盲人官位最高の「検校」にのぼりつめ
  ました。
  ふるさと長鳥郷が大飢饉の際には検校米を送り、当時の御礼塔が今でも残されて
  います。
  臨終の直前、親の財産はあてにするなと証文に火をつけて灰にし、わが子に独立自尊
  教え、その精神は曾孫である勝海舟に受け継がれました」と書かれている。
 ・杉平の御礼塔
  山道の道路脇に「越後七街道 米山検校御礼塔入口 北条毛利街道」と書かれた標柱が
  立ち、坂道を少し登ると御礼塔がある。
  山上家の墓地内に祀られている三基の墓石の中の一基が御礼塔。
 ・大角間の御礼塔
  大角間の御礼塔は、大角間の小林哲夫(72)の作業所脇の敷地内に筆塚とともに
  祀られていた。
  御礼塔の脇に「米山検校御礼塔・筆塚」と書かれた案内板がある。
  御礼塔は、2007年7月の中越沖地震の際土砂崩れで崖下に押し流された。
  御礼塔は集落の人たちの協力で集落の入り口の現在の場所に移された。
  御礼塔の前のコンクリートの地面には「19年8月建立」と移された日が書かれている。
  小林さんは、「村の言い伝えでは、大飢饉が3年も続いたとき米山検校が12か村に
  米を救援して村人を救った。その恩を子々孫々まで伝えようと塔を建てた。
  山上家と親戚関係にある我が家では、米山検校の位牌を今も自宅で祀っている。
  昔大河ドラマ勝海舟が放送されたとき、米山検校や勝海舟のお宝物が土蔵に
  あるのではないかと多くの人が調べに来ました」と懐かしそうに話した。
村の入り口の看板には「長鳥川の源流緑豊かな村 これより大角間」の看板が立ち、終点の
杉平バス停には「道の駅大角間」と書かれている。
HNK大河ドラマ篤姫」もいよいよ佳境に入る。
江戸城無血開城し、江戸を戦火から救った勝海舟
曾祖父米山検校が救援米で故郷の住民を救い、曾孫の勝海舟が江戸の住民を救った。
米山検校の里を歩き慈悲の心を知った。

米山検校の里を歩き御礼塔を見る (イラストを模写)