農民が悪水と闘う掘削と用水路の開削

kanazu362008-11-14

日本一の米どころ新潟。
新潟市近郷の蒲原平野も秋の穫り入れ終わった。
かっては西蒲原一帯は、海抜0m以下が20%を占める
低湿地帯で、「三年一作」といわた。
悪水と闘い川を掘削した農民。
水不足に悩み用水路を開削した農民。
水との闘いの苦しみの記録が石碑に刻まれている
近郷の村々を歩き農民の水との闘いの石碑めぐり農民の苦渋を知った。
・関屋堀割記念碑(10月14日・新潟市坂井:西川公園)
 西川沿いの左岸の西川公園の敷地内に「関屋堀割記念碑」が建つ。
 碑には、明治26年から明治43年までの関屋堀割の経過が書かれている。
 「坂井輪のむかしをたずねて」(坂井輪郷土を語る会平成16年10月12日刊)に
 石碑を読みやすく意訳した文が掲載されている。
 明治26年坂井郷普通水利組合は、坂井輪・寺尾・小針・青山・平島の田畑の水を
 小堀に集めて、永年の夢であった関屋の堀割から海に流す工事に着手した。
 一時中断を余儀なくされたが、明治42年再起工し、翌43年5月に開通した。
 堀の深さは子供の背が立たない位の深さで、堀の巾は水面で三間くらい、土手の高さも
 五間くらいあった。
 堀の水はきれいで水泳もでき、蜆(しじみ)・鮒・どじょう・えびなどがとれたと言う。
 関屋分水路は古くから考えられていて、文政年間(1818年−1829年)に
 横山太郎兵衛が唱えたのが始まりと言われる。
 1911年(明治44)には、新潟近郊の坂井輪地区の排水を良くするため、現在の関屋
 分水路のやや下流側に長さ約1.7kmの堀割がつくられた。
 しかし、海からの砂によって河口が埋まり、すぐに効果がなくなり12年後、排水が
 出来なくなり昔の姿に戻った。
 NPO法人坂井輪地域学では「ふるさと坂井輪歴史紙芝居」を製作、その中で「関屋堀割の
 工事の様子」を紹介している。
・新川開発創業者供養塔(11月10日・新潟市高山:蓮久寺)
 新潟市高山の蓮久寺境内に新川開発創業者長岡領中野小屋村伊藤五郎左衛門など21
 集落の割元の名が書かれた供養塔が建立されている(長岡領16村・村上領5村)。
 石碑(昭和43年5月建立)には、三潟地方の治水は、蒲原全郡の運命にかかり水害を
 救って美田を開くことは先覚者の悲願だった。
 文化4年(1807)中の口川の決壊による大惨事は、幕府を動かし・・・。
 文化14年(1817)幕府から許可が下り、文化15年(1818)2月
 長岡領16名・ 村上領5名の庄屋により着工した。
 ・文政3年(1820)二樋付込み事業
 ・明治42年((1909))に煉瓦造り
 ・暗閘となる
 昭和30年(1955)には、西川を水路橋として立体交差する。
 (西川の下を新川が流れる日本でも珍しい立体交差する川)
 この新川の開発により三潟地方はじめ蒲原全郡は水害を免れ、水腐田は乾田となり
 豊穣の楽土と生まれ変わった。
 工費に投じた私財は回収できず多くの亡命の悲運に陥った。
 横田切れによる大惨事が政府を動かし、大河津分水路の掘削と開発事業へと。
 毎年7月には新潟市高山の長岡藩領「蓮久寺」で、西蒲原を湛水被害から守るため、
 江戸時代に新川を掘削した人々の功績をたたえる慰霊法要が行われる。
・用水路開削義人高橋源助之顕彰碑(11月7日・旧西川町見帯)
 旧西川町曽根の見帯地区の公園内に「義人高橋源助之顕彰碑」が建立されている。
 石碑(昭和53年11月12日建立)には、その祖は甲斐から遁れ来て曽根見帯村に
 落着き姓を高橋と名乗った。
 源助曽根村の割元となって開墾を進め鋭意耕地の拡張に努力した。
 しかし、用水の便悪く折角の開田も水不足のために荒廃に帰しことがしばしばであった。
 源助はこれを憂えて割前村から約6キロの用水路を開削して、西川の水を引くことを思い
 立ち、長岡藩主に願い出た。
 源助は「失敗したときは首をかけて責任を取る」と約束し開削は認められた。
 源助と村民の努力で用水路は完成。
 1681年(天和元年)10月9日、通水式が行われたが、藩役人の妨害で水は流れず
 工事失敗の責任を取らされ源助はその場で打ち首。
 首は西川水中に深く沈んだ。
 しばらくすると、板をくわえた、恐ろしい形相の源助首が浮かび上がり、勢いよく用水路に
 水が流れた・・・。
 源助の犠牲のお蔭で曽根二百町歩の耕地は救われ、明治27・28年の大干ばつの際
 には田植えの出来なかった村々が多かった中にひとり曽根近郷が災害から免れた。
 集落の古老から用水路の場所を聞いた。
 天竺堂から西川に通ずる農道脇の用水路にその一部があると聞かされ現場を見た。
 昔の面影はなく、コンクリートで整備された用水路が、真田東汰上揚水機場を経て西川に
 通じている。
 西川にかかる近くの橋は、鎧郷の「くらまえばし」だった。
低地と悪水に悩まされた蒲原の人々、関屋堀割や新川堀割や用水路開削で悪田が
美田に。
あの石碑は(イラストを模写)