大庄屋と割元庄屋
11月21日の地方紙新潟日報の1面に、
「19日からの降雪で真っ白になった田圃で餌をついばむ
トキの姿が20日確認された。」と記事が掲載されている。
確認された場所は、以前に見つかった新潟県北の関川村西部。
米どころ新潟地方には大庄屋や割元庄屋と呼ばれる旧家が多い。
興味を持ち大庄屋や割元庄屋と呼ばれた人たちの館などを訪ねた。
・大庄屋とは
江戸時代、地方行政を担当した村役人の一、「大肝煎(おおぎもいり)・大総代」とも。
代官または郡奉行の下で数村から数十村の庄屋を支配して、法規の伝達、年貢割り
当て、訴訟の調停などを行った。
・割元総代・割元庄屋とは
江戸時代の村役人の一。
郡代・代官などの指揮下に名主(庄屋)を支配して十数か村から数十か村を統轄し、
年貢の割り当てや命令の伝達などを行った。
・中原邸(新潟市赤塚:豪農・11月14日)
中原邸は江戸期の豪農の館で、1878年(明治11)明治天皇が北陸巡行の際、
昼食のため立ち寄った由緒ある館。
現在敷地内(約1000坪)の別棟に高齢の母親が1人で暮らす。
近くの斉藤榮(80)さんに屋敷内の1部を案内していただいた。
表門の大門左側に戦前「明治天皇赤塚行在所」の石碑が建っていたが、今は屋敷内に
移されている。
大門の左右にもみの木とたぶの木の大木があり新潟市の保存樹に指定されている。
母屋は1831年(天保2)に建てられた。
屋敷前の通りが北国街道で館は江戸期には北国街道の赤塚宿の本陣だったと。
新聞によれば、地元の有志らが「中原邸」を守ろうと保存会を設立した。
・長井家跡(新潟市小林:大庄屋・10月30日)
新潟市小林地区の歴史研究グループ「小林の歴史を語る会」が、小林地区の大庄屋・
長井家を紹介する看板をかっての同家の屋敷があったとされる戸頭神社の境内に設置
したと知り見てきた。
看板には「新発田藩領大庄屋長井家」と書かれ、
「上杉家のあと越後国の支配者となった堀家に従って新発田藩主となる溝口家が来越、
その家臣の一人として長井家がいた。
慶長3年(1598)のことである。
長井家は、古代・中世の豪族大江家の流れをくむと伝えられ、戦国時代の末には溝口家
の有力家臣の一人となり、ここ戸頭に居を定め、村人らと共に新田の開発、地域の保全
などに尽力を続けた。
長井家は戸頭組のち中ノ口組の大庄屋として代々世襲し、約260年にわたって組内の
行政全般を司り、藩庁と村々を繋ぐ重責を担ってきた」と紹介している。
・前田家墓所(新潟市坂井:坂井割元庄屋・10月28日)
10月28日、NPO坂井輪地域学の人たちの案内で前田家墓所を見学した。
前田家の先祖は、承応2年(1653)片山津から内野に移住、内野の庄屋となる。
割元庄屋前田家は400坪の屋敷に堀をめぐらし、広い屋敷に長岡藩の米蔵があり、
屋敷の前に西川の船着場があった。
江戸中期から末期にかけて「坂井村割元・前田為七」の名前が文献に見られる。
しかい今は、その面影もなく屋敷跡にはマンションが建ち空き地に祀られた墓所が
往時の華やかさを偲ばせる。
・澤将監の館(新潟市中之口打越:大庄屋11月12日)
西蒲原中之口村に、かって水と闘いながら新田開発に力を注ぎ大庄屋となった武士が
いた。
甲斐武田信玄の家臣であった澤将監が武田氏滅亡後、上杉氏を頼って越後に入り、
慶長17年(1612)打越村の小林家に世話となりこの地に住みついた。
将監は、甲斐の国で身に付けた土木技術を生かし、「囲い土手」を築き悪水を排除
しながら新田開発に力を注ぎ2千石の村にするという偉業を成し遂げた。
・元和2年(1616)には村庄屋に任命された
・慶安2年(1616)には村上藩領地の村々の庄屋連中を取り締まる打越組大庄屋
に任命された
館は、竹下登内閣が行った政策のひとつ(1988年から1989年)「ふるさと創生事業」
の1億円の交付金を活用し、総事業費7億3900万円をかけ平成6年6月に復元完成、
同年8月1日に開館した。
・笹川邸(新潟市味方:大庄屋・10月30日)
表門脇に「重要文化財笹川邸」の石柱が立つ。
旧笹川家住宅は、江戸時代に旧村上藩の大庄屋を務め、味方組八ヵ村を支配していた
笹川氏の旧屋敷です。
初代当主は武田治右衛門源義勝、川中島の戦いの後、信州飯山のふもと笹川村から
当村へ移住し、改姓したといわる。
大庄屋に任命されたのは慶安二年(1649)、三代目の彦左衛門源信秀の時。
以後、明治維新までの約200年間、笹川氏が9代にわたって大庄屋を世襲、維新後も
大地主として君臨し、治水事業につくし、役宅はそのまま邸宅となった。
近郷の大庄屋や割元庄屋の館と跡地を訪ね往時の繁栄振りを偲んだ。
看板を読む (イラストを模写)