悪水と闘ったた亀田郷の古農具

kanazu362008-12-28

新潟に “地図にない湖”と言われた「亀田郷」がある。
信濃川などに囲まれた輪中地帯で自然排水ができず、
水の闘いだった。・・・」で始まった亀田郷土改芦沼館の
古農具紹介の新聞連載が12月27日で終わった。
最初の紹介が12月2日の「板合わせ」で最終回が「ヤマギモンとモモヒキ」。
新潟のもと「むかしのくらし展“米とくらし”」がみなとピアで開催されている。
新潟の米どころ「悪水と闘った亀田郷」の先人の苦労を知ろうと芦沼館を訪れたのは、
8月21日だった。
・亀田郷土改芦沼館
 ・亀田郷とは
  新潟市中央区江南区・東区にまたがり、信濃川阿賀野川と小阿賀野川
  新潟砂丘に囲まれ、鳥屋野潟を底とする輪中地帯の総称。
  地区の面積は、11154ha(田3829ha・畑634ha・その他11154ha)で、
  その3分の2が日本海の平均潮位より低い。
  土地改良以前は、「芦沼」や「地図にない湖」と呼ばれた低湿地帯。
 ・芦沼
  作家司馬遼太郎をして「世界に類をみない」と言わしめた、過酷な湿地帯での
  農作業。
  胸まで水に浸かっての作業を、来る年も、また来る年も、わずかばかりの作に
  祈りを込めて繰り返した。
  農民は、海が荒れれば海水が逆流し塩害に、大雨が降れば信濃川阿賀野川
  小阿賀野川の氾濫に苦しめられた。
  農民たちは、潟や湖の泥を舟で運び水面下の田に入れ少しでも高くしょうとした。
  水と闘い、水と生きることが亀田郷に住む農民の宿命であった。
  いつの日か、「芦沼を乾田にすること」が農民の願いだった。
  小学校の社会科の教科書で、胸まで浸かって田植えをする写真を見た記憶がある。
  あの写真が、芦沼と言われた亀田郷の田植えの様子だったのだ。
 ・芦沼の乾田化
  亀田郷土地改良区の大事業が芦沼を乾田化した。
  昭和23年に東洋一といわれた「栗ノ木排水機場」を完成させた。
  排水機場の完成で亀田郷内の水が信濃川に排水され、芦沼が乾田化した。
  昭和39年の新潟地震によって機能が低下した栗ノ木排水機場に替わり、
  昭和43年に旧親松排水機場が整備された。
  その親松排水機場も老朽化したことから、平成19年3月22日新しい
  親松排水機場が整備された。
  新親松排水機場は1秒間に60立方メートルの水を排水する。
  現在雨が降ると亀田郷の雨水は、全て鳥屋野潟に集め親松排水機場のポンプで
  信濃川に放流する。
・芦沼館と古農具
 亀田郷土地改良区の敷地内に芦沼館がある。
 芦沼館は1998年10月、亀田郷土地改良区創立50周年を記念して建てられた。
 芦沼・湛水時代の苦難の歴史を伝える資料約200点が展示されている。
 新聞に紹介された古農具は19点。
 19点の中に農家が水と闘いそれを克服した農民の数々の知恵が伝わってくる古農具が
 5点紹介された。
 ・板合わせ
  長さが8mにもなる大型の稲積舟で60キロの俵を12表も積めた
 ・キッツォ舟     
  長さが2mほどで板合わせより小型の舟
  肥料や稲束を積み、舟を押たり縄で引いたりして運んだ
 ・鋤簾(じょれん)
  長い柄が特徴で堀の底土をすくう「江ざらい」に使った
  すくった土を自分の田に入れ、田んぼを少しでも高くしょうとする作業にも使った
 ・谷地切りガマと谷地ゲタ:
  谷地のアシの根を刈るためのカマで普通のカマより刃や柄が長い
  谷地ゲタはアシを刈り取る際に足を保護するために履いた
 ・カンジキとハコカンジキ
  腰まで水に浸かるような深田で稲刈りを行うときにカンジキを履き体が沈むのを防ぐ
  カンジキを履いても間に合わないような場合はハコカンジキに履き替えた
 紹介は5点と少ないが、資料館にはまだまだ水との闘いの古農具がたくさんある。
芦沼から穀倉地帯に大変身した亀田郷。
穀倉地帯も今では、住宅地やスポーツ競技場や野球場なでに大きく様変わり。
いまは、昔の芦沼の面影はどこにもない。

ここが腰まで浸かった田んぼとは (イラストを模写)