もうひとつの天地人・上杉家の重臣   村上城主本庄繁長

kanazu362009-02-01

早いもので好評のNHK大河ドラマ天地人は、今日が5回目で
「信長は鬼か」が放送される。
4回目の「年上の女」では、天神山城主となる直江兼続
大国実頼樋口与七小泉孝太郎)が登場した。
小国実頼は天正10年(1582)から慶長3年(1598)まで天神山城主であった。
しかし、天文18年(1590)から慶長3年(1598)まで村上城主にもなっている。
村上市のおしゃぎり会館で「もうひとつの天地人 本庄繁長の生きた時代 小泉庄に生きた
国人領主その興亡・・・」展が開催されており1月23に見てきた。
村上城(本庄城)
 臥牛山に初めて城が築かれた年代は定かではないが、戦国時代(16世紀初頭)に、
 阿賀北の領主、本庄氏によって築城されたとみられている。
 当時は本庄城と呼ばれており、木柵で防御された中世式の城郭であった。
 永禄11年(1568年)、城主本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻す。
 1年にわたり籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け
 入れ、嫡子顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで講和を受け入れた。
 1598年、本庄氏の会津転封にともなって、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となる。
・本庄越前守繁長
 本庄氏は桓武平氏秩父氏の流れをくみ、本庄氏の祖・秩父季長が瀬波郡小泉の庄の
 地頭に任ぜられる。
 小泉庄の本庄・加納の両所が地頭請所となり、季長の長子行長と次子為長がそれぞれ
 本庄と加納の地頭となった。
 行長の子孫がのち本庄氏を名乗り、為長の系統が色部氏を称した。
 天文8年(1539)12月4日、父本庄房長が弟小川長資に本庄城を乗っ取られ、
 急死した6日後、猿沢城で繁長が誕生。
 同20年(1551)8月8日、繁長は叔父小川長資を切腹させ、父の敵を討ち、本庄城主と
 なる。
 天文22年(1553)上杉謙信に拝謁し、その後川中島合戦の信濃や関東に出陣。
 永禄11年(1568)甲斐の武田信玄に呼応して、打倒上杉謙信の旗をひるがえし、
 本庄城に籠城すること1年におよんだが、ついに和睦する。
 謙信死後の「御館の乱」では、いち早く景勝方につくことを表明した。
・庄内十五里原の戦い
 天正16年(1588)、山形城主最上義光の軍勢と庄内十五里原で戦い大勝する。
 しかし、それが豊臣秀吉の惣無事令(私闘禁止令)に違反することとなり、同18年
 (1560)改易となり大和国に配流される。
 代わりに、上杉景勝重臣大国実頼が本庄城主となる。(瀬波郡絵図参照)
 壁には「越後国全図」が貼られ、「この絵図は文政元年(1818)に作成されたもの
 を文久2年(1862)に模写したものです。
 本来は5枚組の絵図です。
 北は庄内藩境から南は富山藩、東は会津・米沢両藩境まで広く当時の越後1国(現在の
 新潟県)を網羅しています」と説明されている。
 その後繁長は、嫌疑が晴れて帰参し、上杉景勝会津へ転封になるとそれに従い、
 守山城福島県郡山市)城代に任じられた。
 繁長は、「関ケ原の戦い(慶長5年1600年)」の直前福島城主となる。
 関ヶ原戦後、繁長は上杉家の講和の使として、家康の元へ上洛している。
 景勝が会津120万石から米沢30万石に減封されたのちも福島城代を務め、重臣として
 直江兼続とともに家中の再建にあたった。
 嫡男の顕長が父に先立って死去したため、家督は次男で出羽庄内の大宝寺氏に養子
 として入っていた義勝が充長と改名して相続した。
 慶長18年(1613)12月20日、福島城で病没。享年75歳
 「本庄家譜」によれば、生涯85度の合戦において敗れることはなかったとしてある。
・上杉九将図
 上杉九将図には、上段中央に上杉謙信を配し、左上から直江山城守兼続・甘粕近江守
 景持・本城(庄)越前守繁長、右上から長尾越前守政景・柿崎和泉守景家・北条丹後守
 高広・新発田因幡守重家、中央下段に宇佐美駿河守定行が描かれ、本庄越前守繁長の
 姿もある。
地方紙新潟日報では、連日天地人ゆかりの地や武将たちを紹介する。
1月29日の新聞には、柏崎市の北条地区では、北条城本丸跡に戦国武将北条高広
(新井康弘)ら北条毛利氏一族の活躍した史跡案内看板を設置したと。
1月31日の新聞には、上田衆の一人で弥彦村麓の黒滝城主深沢弥七郎(松本実)を
紹介するため村役場で天地人ドラマの制作風景とドラマも概要や見どころや人物関係図
などを展示していると。
大河ドラマ天地人」では、本庄越前守繁長や新発田因幡守重家は誰が演ずるだろうか。
日曜日の放送が楽しみだ。

本庄城から眼下の村上の町を眺める (イラストを模写)