大河ドラマ天地人と木場城

kanazu362009-03-01

今日3月1日放送の大河ドラマ天地人」は“謙信死す”。
謙信の死で上杉家は分裂。
景勝と影虎の跡目争いをめぐる戦い「御館の乱」が始まる。
グループ活動の「坂井輪地域学」に加入し、地元の歴史などを
調べ楽しんでいる。
2月の課題は「木場城」で発表を担当した。
旧黒埼町(現新潟市)に木場という地名のあることは知っていたが、木場城のことは
何も知らない。
発表するため、旧木場村を散策し黒埼図書館で木場城の資料を調べた。
(木場の郷土誌・越後木場城(青木宏著)・埋もれた古城などから抜粋)
・木場という地名
 全国で木場という地名は4か所ある。
 ・江戸の木場(東京江東区深川)・羽前の木場(山形県米沢市)・加賀の木場(石川県
 小松市)そして越後国蒲原郡木場村(旧黒埼町)。
 伝承によれば、木場はその昔弥彦神社の御用材を集結し、筏を組んで弥彦に納めていた 
 ところから、そう呼ばれるようになつたというが、真否については立証する何もない。
 木場の郷土誌歴史年表によれば 
 木場が歴史の上に出てくるのは、上杉景勝が三条城を攻撃中の天正8年(1580)
 5月22日、作戦を有利に導いた山吉玄蕃亟に、木場の地と河中島の浄蓮寺分を与え
 たことが始めである。
 天正9年(1581)6月22日、蓼沼(たでぬま)藤七木場城主・二の丸城将山吉玄蕃亟が
 命じられた。
 慶長3年(1598)1月上杉景勝が越後から会津へ移封を命じられる。
・木場城
 ・城の種別 平城  ・築城時期 天正5年(1577)
 ・築城者 山吉氏  ・主要城主 山吉氏、蓼沼(菱沼)氏 ・遺構 なし
 山吉氏は守護代長尾氏の蒲原郡代として三条城代を歴任したが、天正5年(1577)
 6月、山吉豊守が没し、嗣子が無かったため三条城を召し上げられ、弟の景長は所領を
 半減されて木場に移った。
・新潟城と木場城 
 「新発田重家の乱」に際して、重家の本拠である新発田城攻防と並んで繰り広げられた
 もうひとつの重要戦線、新潟津をめぐる争奪戦、その上杉方最前線基地となったのが
 この木場城。
 城将の山吉氏、菱沼(蓼沼)氏らは、折を見て再三新潟城を攻撃しが、大河に浮かぶ
 新潟城はなかなか手ごわかったようで、なかなか落とせなかった。
 逆に新発田勢も木場城を再三攻撃するが、この木場城周辺もかつては信濃川水系
 中ノ口川とその周囲に広がる大潟・田潟・鎧潟などの大湖沼地帯に囲まれていて、
 新発田勢も結局は落とせなかった。
会津移封と木場城
 慶長3年(1598)正月10日、上杉景勝豊臣秀吉に越後から会津へ移封を命じれた。
 「家中の侍は勿論、中間小者奉公人に至るまで一人残らず召し連れて行くように。
 若し立退かない者があったら成敗を加えるよう。ただ田畑に関係していて検地帳に
 上がっている百姓は連れて行ってはいけない」と強く命令された。
 国替えは、民族の移動にも比すべき大事業である。
 武士は先ず妻子を送り出し、武具や家財道具等の荷物を搬送する。
 木場城や上屋敷下屋敷等の住人も、任務や後始末が終わると一族郎党を引き連れて
 会津へ移った。
 後始末に木場城の始末がある。
 番城である木場城も、当時のならわしとして、堀は埋められ、土塁は崩され、楼門は
 壊されて原形を止めぬまでに破壊された。
・木場の棒踊り
 一説では木場の廃城後、農民たちが武道の型を残そうと、踊りに託して棒踊り
 を伝えたともいわれる。
発表後、木場出身の会員から、木場村の隣りの吉江村に吉江城があったと。
吉江城主の吉江宗信(俳優:山本圭)は、上杉謙信の側近の中でも文治派として活躍、
「魚津城の戦い」で織田信長家臣柴田勝家軍に囲まれ籠城すること80余日、上杉軍の
援軍もなく魚津城は落城、吉江宗信ら12将は自刃したと教えられた。
魚津城落城自刃12将の中に吉江家は、宗信・景資・長秀・資堅・中条景泰(中条へ養子)
の5人と蓼沼家は蓼沼泰重がいる。
ドラマに登場する吉江宗信の居城吉江城が木場城の隣り村にあったとは知らなかった。
廃線となった新潟交通電車線新潟交通)は、白根駅を出ると味方・味方中学前・吉江・
七穂・板井・木場・新大野・黒埼中学前へと走る。
沿線には「木場駅」と「吉江駅」があった。
いずれ吉江城についても調べてみたい。
木場の人たちは、大河ドラマ天地人に木場城と木場城主蓼沼藤七が登場するのを
楽しみにしている。

昔は「木場駅」も「吉江駅」もあった (イラストを模写)