忠犬ハチ公とタマ公像めぐり

kanazu362009-03-06

昔、「名犬ラッシー」という子どもたちに人気のテレビ番組が
あった。
1957年11月3日から1966年4月23日まで放映された。
犬の名前はラッシーでコリー犬。
犬といえば日本にも忠犬といわれる犬がいる。
忠犬ハチ公とタマ公だ。
忠犬ハチ公の話は全国的に有名だが、タマ公の美談を知る人は少ない。
タマ公の銅像が旧村松町に2体、新潟市に2体もあること知り2月21日タマ公の銅像
めぐりをした。
忠犬ハチ公(東京渋谷駅前:3月1日)
 3月1日東京に旅行した際、JR渋谷駅に下車し忠犬ハチ公銅像を見た。
 ハチは、秋田県大館市出身の秋田犬で銅像は立ちひざ姿。
 1923年出生の翌年から東京帝国大学農学部教授上野英三郎に飼われて、朝夕山手線
 渋谷駅に教授を送迎し、1925年(大正14)教授の死後もその姿を求めて、1935年
 の死ぬまで渋谷駅で帰りを待ち続けた「忠犬」として有名になった。
 東京・青山の上野家墓地に葬られたが、剥製(はくせい)は上野の科学博物館にある。
 今では、若者たちはじめ人々の待ち合わせの目印ともなっている。
・忠犬タマ公
 タマ公は、新潟県中蒲原郡川内村笹目中川原(現五泉市笹目)の刈田吉太郎さんが
 飼っていた猟犬で、今は絶滅した越後シバイヌの雌で当時6歳。
 昭和9年2月5日、刈田さんはタマ公を連れて仲間と猟に出かけた。
 山鳥を見つけて鉄砲を撃った瞬間、雪崩が発生、2人は雪に埋まって身動きが取れなく
 なった。
 タマ公は前足から血を流しながら懸命に主人を掘り起こして救出した。
 それから2年後の昭和11年1月10日、刈田さんは4人で狩りに出て再び雪崩に
 襲われたが、タマ公はまたもや主人ら4人を助け出した。
 2度にわたる人命救助は当時の新聞で「人間以上の功績」と報道され、ラジオで全国
 放送され人々に強い感銘を与えた。
・忠犬タマ公の像
 ・川内小学校校庭の忠犬タマ公像(旧村松町川内)
  忠犬をたたえ、地元の川内小学校の校長が像の建設運動を始め、昭和12年、等身大の
  銅像が川内小学校と新潟市の白山公園に建てられた。
 ・村松公園の忠犬タマ公像(旧村松町村松公園
  村松公園の忠犬タマ公像は、昭和57年11月上越新幹線の開通を記念して新潟駅
  建立された像と同じもので、多くの人々の寄付金により製作された。
  忠犬タマ公の美談と雄姿を後世に伝えるため昭和58年4月忠犬タマ公像建立実行委員
  から寄贈された。
 ・白山公園の忠犬タマ公像
  忠犬をたたえ、地元の川内小学校の校長が像の建設運動を始め、昭和12年、等身大の
  銅像が川内小学校と新潟市の白山公園に建てられた。
  銅像は戦時中の銅鉄供出の犠牲となった。
  その後、昭和33年に再建運動が起き新潟市民らの支援によって翌34年、皇太子殿下
  ご成婚を記念して2代目が建立された。
 ・新潟駅の忠犬タマ公像
  昭和57年には上越新幹線開通を記念し、永くこの美談を伝えるため、広く県内外の
  賛同者からの浄財により製作され、村松町忠犬タマ公像建立実行委員から寄贈された。
  銅像のそばに「タマ公物語」と「タマ公賛歌」の歌詞が掲げられている。
・番外:衣笠山公園の石碑(横須賀市
 タマ公の功績を称える石碑は、神奈川県横須賀市衣笠山公園にもある。
 その題字は、逓信大臣や横須賀市長を歴任した小泉又次郎氏(小泉純一郎氏の祖父)
 によって書かれた。
 川内小学校と村松公園の忠犬タマ公像の脇には、平成14年からタマ公が取り持つ縁で
 始まった横須賀市村松町の交流と発展を祈念して平成15年4月に「忠犬タマ公の像」の
 石碑が建っている。
 石碑の「忠犬タマ公の像」の文字は、タマ公の忠犬美談に親しまれてた横須賀市出身の
 内閣総理大臣小泉純一郎氏の直筆。
忠犬ハチ公とタマ公像めぐりをし、ハチ公とタマ公の美談を知った。
何時か横須賀衣笠山公園の石碑を訪ねてみたい。

このタマ公像は (イラストを模写)