大河ドラマ天地人と黒滝城

kanazu362009-04-19

御館が落城、上杉景虎が自刃した。
弥彦村黒滝城は、御館の乱で活躍した上田衆(上杉景勝
家臣団)の一人深沢弥七郎(松本実)が城主を務めた城として
最近脚光を浴びている。
4月11日、弥彦村が企画した「上杉謙信天地人ゆかりの地“黒滝城跡”」トレッキング
ツアーに参加し黒滝城跡を見学した。
黒滝城
 黒滝城跡登山口に「黒滝城跡」と「“天地人”ゆかりの黒滝城」の説明看板が2本立て
 られている。
 地元郷土史家小林孝さんは、最近大河ドラマ天地人で最後の黒滝城主であった深沢
 弥七郎が登場して活躍していることから深沢弥七郎を追加した看板を急拠新しく立てた
 と。
黒滝城跡(これまでの看板)
 黒滝城の由来は、城山の北側に黒い岩壁から流れ落ちるのが黒滝で、この滝にちなんだ
 ものだと伝えられている。
 黒滝城は、弥彦村大字麓字要害にあり、築城の年代は定かでないが鎌倉時代には小国
 一族が在城する。
 その後、天文14年(1545)城主黒田和泉守秀忠が長尾晴景(謙信の兄)に反抗した
 ことで、天文15年(1546)謙信に黒田一族は討ち果たされた。
 謙信は、上杉家の重臣山岸出雲守光祐を城主に命ずる。
 以後、山岸秀能・村山慶綱らが城主になる。
 慶長3年(1598)上杉景勝会津移封により山岸氏一族もこれに従い会津に移住後
 黒滝城は廃城となった。
 昭和50年11月弥彦村文化財に指定。
 この看板には深沢弥七郎のことは何も書かれていない。
・「天地人」ゆかりの黒滝城(新しい看板)
 築城及び南北朝時明細は定かでないが鎌倉末期刈羽の小国氏による存在が知らされ、
 中世戦国の謙信の父長尾為景時代に至り急にクローズアップされた城である。
 為景没し晴景代に黒田秀忠らが出雲崎の新山城とこの城で二度も反抗したため黒田
 一族は謙信に討ち果たされた。
 謙信は、後任に上杉家の重臣山岸出雲守光祐を城主とした。
 謙信が没した後の後継者争いの「御館の乱」では、黒滝城主は景勝方に味方参陣した。
 御館の乱後、直江兼続は「深沢弥七郎(後の山岸尚家)」を当城の山岸家に入れ城主と
 した。
 景勝の会津移封で山岸尚家も同行し廃城となったが現在は黒滝城址森林公園として整備
 されている。(文責・郷土史家・小林孝)
 新しい看板には上田衆の一人深沢弥七郎(後の山岸尚家)ことが追加記入されている。
黒滝城址曲輪群めぐり
 黒滝城跡(天神曲輪・実城:一の曲輪)周辺は現在「黒滝城址森林公園」となっている。
 天神曲輪広場に黒滝城址曲輪群の書かれた地図がある。 
 郷土史家小林孝さんの解説と案内で天神曲輪・二の曲輪・三の曲輪・桜井の曲輪・
 吉傳寺と大蓮寺曲輪・桜清水と鷲沢の井などを見学、北陸道の要塞として重要な役割を
 担った山城「黒滝城」の往時を偲んだ。
・黒滝乃源
 小林孝さんから黒滝城跡登山口に通ずる林道の途中に黒滝城の由来となった
 「黒滝乃源」の石碑があると教えられた。
 翌4月12日林道を車で走り「黒滝乃源」と書かれた石碑を確認した。
大河ドラマ天地人ブームに沸く黒滝城跡を1日目はツアーで2日目は一人で歩いた。

あれ!「黒滝城址」の看板が2枚も (イラストを模写)