宝探しと探検

kanazu362009-05-27

新潟のお宝探し「新川の底樋と新川暗暗閘」と糸魚川市能生の
ツチノコ探し探検ツアーの記事が新聞に。
19日、底樋発掘調査中の新川の現場を訪ねた。
・「越後新川まちおこしの会」の宝探し
 ・底樋探し
  底樋発掘調査は5月18・19日の両日行われた。
  低湿地帯の排水路として1820年に開削された新川。
  開削後はしばらく西川の川底に木の枠型の底樋を設置して新川の水を流していた。
  底樋は1867年までに五つの底樋が設置された。
  しかし、大正2年(1913)当時の最先端技術を駆使したレンガとコンクリートで建造
  された「新川暗閘」が完成した。
  底樋に代わるれんが造りの水路トンネルが完成したのを機に底樋は埋められたとされて
  いる。
  発掘調査は、埋もれた郷土の遺産に光を当てようと「越後新川まちおこしの会」が企画
  した。
  発掘現場に着くと底樋が埋められていたと思われる場所をショベルかー1台が掘り起こ
  していた。
  同会の世話人の加藤功(62)さんは「昨18日の掘削で厚さ約3センチ・高さ約50
  センチの木の板と“和くぎ”が刺さった木片などを見つけましたが、当時新川で使われて
  いた川舟の一部で残念ながら底樋ではありません。今日の掘削に期待します。
  興味があるなら本をあげますよ」と「越後後新川〜川の上を流れる川がある〜」を1冊
  贈呈された。
 ・新川暗暗閘銘板探し
  大正2年(1913)当時の最先端技術を駆使したレンガとコンクリートで建造された
  「新川暗閘」も昭和30年(1955)役割を終え爆破解体された。
  新川暗閘には「新川暗閘」と「流濕毓秀」の文字が石に刻まれた巨大銘板があった。
  これまでに「新川暗閘」と刻まれた4枚のうち「新」「川」「暗」の3枚と施工業者名の
  刻まれた銘板が見つかっている。
  5月6日銘板を見てきた。
  「新」「川」と請負者名「櫻組」の3枚は、新潟市西区中野小屋の元中野小屋村長椎谷宅
  の庭の土留めに使われいる。
  「暗」の1枚は、新潟市西区内野町の樋木酒造の庭に置かれいる。
  石の銘板にそれぞれの文字が刻まれている。
  銘板の大きさは、高さ126センチ・横121センチ・幅28センチ。
  「越後新川まちおこしの会」では、残る「閘」と「流濕毓秀」の5枚の巨大銘板の行を
  探している。
・探検
 ・ツチノコ探し探検ツアー(糸魚川市能生地区西飛山)
  24日、糸魚川市の西飛山の放山山麓周辺で今年4回目となツチノコ探検ツアーが
  行われた。
  支援企業がツチノコ獲得者に賞金1億円を提供する。
  賞金1億円を目指し新潟市や東京や富山などから約50人(募集定員100人)が探検
  ツアーに参加した。
  古事記にも登場する幻の生き物ツチノコ
  地元観光協会副会長の丸山隆志隊長によると、市内でも10件近い目撃情報があり、
  長さ1メートル弱、一升瓶のような姿とか。
  一行は情報を基に約6時間、山中を捜索したが発見には至らなかった。
  丸山隊長は「賞金はいつでも出す。糸魚川に来て」と呼びかけた。
 ・大沢鐘乳洞(旧村松町大沢:5月20日)
  村松町田上町を結ぶ県道67号線の大沢峠付近の山中に大沢鐘乳洞(村松町指定
  文化財)がある。
  亀徳泉の資料によれば、「村松町大沢の鍾乳洞は、1913年(大正2年)に当店の先祖
  である佐藤亀蔵が、石材業をしていた時に発見したものです。
  洞窟の延長は145m、高低差17m」と。
  県道駐車場から約300m山道を登ると鐘乳洞の入り口に着く。
  途中に家が一軒あり、鐘乳洞に通じる山道の途中に石の鳥居もある。
  一柱は朽ちて倒れ一柱はまだ立っていた。
  鐘乳洞の入り口の看板に「日本にはたくさんの鐘乳洞があります。大部分の鐘乳洞は
  古生代という今から数億年も前、生物の遺骸が堆積してできた石灰岩という硬い岩石の
  中にできています。
  しかし、大沢鐘乳洞は、新生代新第3紀鮮新世という新しい時代に砂が堆積してできた
  やわらかい砂岩のなかにできています。
  このような新しい地層にできた鐘乳洞はめずらしく、日本ではほんの2〜3を数える
  くらいしかないといいます。
  この付近の大沢石といわれる砂岩は、石灰岩が砕けた砂でできています。・・・
  洞内には照明施設はありません。各自で危険防止に最大の注意をしながら見学して
  ください」と書かれている。
  鐘乳洞探検で洞内に入った。
  10mも進むと真っ暗で先は見えない。
  懐中電灯が無いので今回の探検は中止した。
  下山の途中農家の庭に布団が干してあったのでに立ち寄った。
  老婆(75)が一人で畑の草取りをしていたので話を聞いた。
  「この付近は昔石工で栄えていた。私が嫁いできたころは集落に18軒も家があったが、
  今はここと温泉宿の亀徳泉だけになった。
  子どものころ村にあった村松の学校には行かず羽生田の学校に行った。
  理由は、村松の学校までは二里(8キロ)もあり、羽生田の学校は一里(4キロ)だった
  から。
  集落の人たちは大沢石で夜灯などを造っていました。畑のなかにゴロゴロ転がって
  いるのがその時のかけらです。これもそうです。
  親も大沢石で夜灯を造っていました。
  やわらかく加工しやすい石ですがもろいのが欠点。
  冬になると私も山を降り羽生田に行きますよ」と。
夢とロマンを膨らませてくれるお宝探しと探検。
次はどんな宝探しと探検に出会えるだろうか。

発掘現場を見守る (イラストを模写)