恵信尼と親鸞越後七不思議

kanazu362009-06-01

地方紙新潟日報に連載小説「親鸞」が掲載されている。
4月22日(第228回)からの「迫りくる嵐の予感」の中で、恵信尼
と再会、綽空(しゃくくう・親鸞)と結婚する様子が書かれている。
恵心尼の故郷「ゑしんの里記念館」で、“親鸞の妻恵信・十通の
手紙”展が開催されている。
5月30日、親鸞聖人の越後七不思議の一つ国指定天然記念物である「鳥屋野逆ダ
の藪」が一般公開された。
恵信尼親鸞に魅せられ、ゑしんの里記念館見学と親鸞越後七不思議めぐりでをした。
親鸞の妻恵信・十通の手紙展(旧板倉町米増:ゑしんの里記念館・5月23日)
 旧板倉町は、親鸞の妻恵信尼が晩年を過ごした場所とされている。
 ゑしんの里記念館の一画に墓所として恵信尼塔が祀られている。
 親鸞の妻恵信・十通の手紙展で飾られている書簡は、恵信尼が板倉から京都にいる娘の
 覚信宛に送ったもので、親鸞との生活の様子を回想する内容。
親鸞聖人越後七不思議めぐり  
 ・鳥屋野逆竹(新潟市中央区鳥屋野・5月30日)
  「逆(さかさ)ダケ」は、親鸞聖人が鳥屋野の地で布教していたとき、持っていた竹
  の杖を地面に挿したところ、根付いて枝葉が逆さに生えたといられている。
  新潟市は、所有者の西方寺から文化財指定部分の8497平方メートルの土地を取得し
  国指定天然記念物「鳥屋野逆ダケの藪(やぶ)」として遊歩道などに整備し、緑地公園
  として5月30日から日から一般公開を始めた。
  約9000平方メートルの敷地に800本ほどあり、国内では同所だけに存在すると
  されている。
  逆ダケの藪に入ると青いビニールテープが結ばれた竹がある。
  係員は「青いテープで結ばれている竹が逆ダケです」と。
  逆ダケは枝葉が上向きではなく下向きに伸びている。
 ・川越波切りの名号(新潟市西区寺地・5月30日)
  寺地地内の信濃川の堤防下に「見真大師御名号旧跡」の石碑が建つ。
  越後へ流された親鸞聖人が、鳥屋野から近郷の村々を御布教して居られた、ある日の
  こと。その日の御布教を終えられた聖人が、いっもの通り、寺地村(鮫洲)の渡し守、
  新十郎の船に乗って、信濃川を鳥屋野へ渡ろうとなされた時。急に激しい北風が起こり、
  川は大海原の如く波立ち、船は進退ままならず、正に沈没の状態となった。
  新十郎は手のほどこしようもなく途方に暮れていたところ、聖人が懐中より紙を取り
  出され、南無阿弥陀仏の御名号を書かれて新十郎に与えられた。
  早速、新十郎がこの御名号を船の表にひるがえしたところ、激しい烈風や入波は忽ちに
  静まり、船はすべるように鳥屋野に着船した。
  これを世の人々は川越波切りの御名号と呼ぴ、聖人の書かれた「南無阿弥陀仏
  御名号」(御真筆)は、今も寺地の鈴木伝来旧跡家に祭られている。 
  (親鸞聖人の川越波切御名号 御縁起より〉
 ・国府の片葉の葦(上越市五智:居多神社・5月23日)
  居多神社にて親鸞が祈願すると、一晩にして周辺の葦(あし)が片葉になったと
  いわれる。
  親鸞聖人上陸の地といわれる居多ケ浜にも「親鸞聖人越後七不思議第一番片葉の葦」
  の石碑が建ち石碑の周りに片葉の葦が群生していた。
 ・保田の三度栗(旧安田町保田:孝順寺・5月20日)   
  孝順寺の境内鐘楼の前に三度栗の木があり脇に石碑が建つ。
  保田の三度栗は伝説によると「親鸞上人がこの地へ布教へ訪れた際、上人をもてなす
  ため信者が焼栗を差し上げた。上人はそれを庭にまいたところ1年に3回花が咲き実を
  つける栗に育った」といわれている。
 ・田上了玄寺の繋ぎ榧(田上町湯田上・5月23日)  
  住職の奥さんが、本堂に供えれれている「繋ぎ榧(つなぎがや)の実」を手にとり由来を
  話された。
  親鸞聖人が、護摩堂城の城主宮崎但馬守に招かれて法話を説かれた折、城主はお茶
  受けにと榧の実を献じられました。
  この榧の実は、農民が年貢米の代りに納めたり、飢饉や洪水でお米の穫れない時に
  食用にしたもので、糸を通して珠数のように繋いで保存していたそうです。
  一粒ごとに繋いだ穴のあとがあります。親鸞聖人は、その一粒を地に植えて仏縁を
  説かれたところ、芽を出し実を結んだと言われております。
  「お参りの記念に榧の実を上げます」と一粒いただいた。
  実には2カ所、針を刺したような穴が開いている。
 ・小島の八房梅と珠数掛桜(旧京ケ瀬村小島:梅護寺・5月23日) 
  梅護寺の山門に「越後七不思議 親鸞聖人 八ツ房の梅 数珠掛桜 両御旧跡」の石碑
  が建つ。
  八房梅:この地に滞在中の親鸞聖人がある日、梅干の種を庭に植えて歌を詠みました。
  すると翌年芽が出て、枝葉が茂り、薄紅色の八重の花が咲き、実が八つづつできる
  ようになったといわれている。
  珠数掛桜:親鸞聖人が出立の際、手にしていた数珠を桜の枝に掛けて仏法を説いた
  ところ、毎年数珠のように花がつながって咲くようになったといわれている。
 ・山田の焼鮒(旧黒埼町山田:田代家・2008年5月7日) 
  地域学の勉強会で山田の田代家の焼鮒旧跡を見学、榎の切り口に親鸞聖人の姿と鮒の
  形がくっきりと見えた。
  田代家の人から焼鮒の由来を聞いた。 
  越後に流された聖人が、建暦元年赦免されてこの地をたたれるとき別れを惜しんだ合子
  (現在の山田)の人々が、村の山王宮に手造りの酒や馳走を持ち寄り、聖人とのお別れ
  の宴を開いた。
  宴半ば、村人の差し上げた焼いた鮒を持たれた聖人が、「私の説いている真宗の教えが
  正しければ、きっとこの鮒が泳ぐでしょう」と、お堂から出て、袈裟を傍らの榎の小枝に
  掛け、南無阿弥陀仏御称名(しょうみょう)と共に御洗水(みたらし)に放下された。
  すると、不思議にも焼かれた鮒が泳ぎ出し、聖人の袈裟を掛けられた榎の根元に隠れた
  といわれている。
  田代家の入り口に「見真大師焼鮒御旧跡」の石碑が建つ。
恵信尼の手紙と親鸞越後七不思議めぐりで「逆ダケ」「片葉の葦」「繋ぎ榧」「親鸞聖人の
姿と鮒の形」をこの目で見ることができた。

親鸞越後七不思議の由来は (イラストを模写)